【政治と法律を知り、そして関わる】



30代半ばのころ、1年ほど法律について集中的に勉強した時期がありました。

そしてその時に決定的に気付いた違和感というものがありました。

それはこの国の私達「民」とカテゴライズされている人々と「法」というものとの関係性に対する違和感です。端的に言うとその関係性のあまりにもの希薄さ。更に端的に言うと私達「民」の大部分があまりにもの法に対して無知であるということ。です。

この国は私が言うまでもなく法治国家であります。法律によって支配され、運営されています。極端な話、誰かからどんな悪辣な目に遭わされたとしても、その受けた行為を罰する法律がなければ、その誰かを裁くことは原則的には出来ないのです。泣き寝入りです。

だからこそ、どのような法律を作り、施行するかがこの法治国家においては「全て」と言えてしまうくらい一大事なのです。(厳密に言えば信義則のような例外的原則もありますが)
極論を言えば「殺人したら罰する」という法律がなかったら、「殺し放題」の恐ろしい世の中なのです。少し前には実際に、「一部の殺人」を法的に正当化する「仇討ち」という制度があったのです。

そして、その法治国家において、「その一大事である法律を誰が決めるか?」という当然の問題があり、その答えとして

王様や貴族、権力者のような特権階級に制限したのをざっくりと専制主義

それを民としたのが民主主義

という見方ができるわけです。

そして、

【私達「民」の意志の反映させるためのツールとして機能はしていると言えるかどうか分かりませんが、選挙で選んだ私達「民」の代表が国会に行き議論の上、法治国家における支配者たる法律を作っているというタテマエは維持運営されています】

そして政治とか民主主義を巡る議論においては常に上の【】でくくった部分が議題となってあーでもないこーでもないとなされているわけですが。。。

曲がりなりにも法律というものを勉強して、法律というものを通して世の中(法治主義により支配運営)というモノを見るという経験をチョロっとした時に、感じた強烈な違和感が冒頭に書いたものです。

私達「民」の法に対するあまりにもの無知さ

この状態を生み出しているもの

そしてその状況が放置されている状況

そこに目を向けたときに、1つキュピーンと来たのです。上に書いた

【私達「民」の意志の反映させるためのツールとして機能はしていると言えるかどうか分かりませんが、選挙で選んだ私達「民」の代表が国会に行き議論の上、法治国家における支配者たる法律を作っているというタテマエは維持運営されています】

この部分に対する議論そのものが目眩ましのツールになっているのではないか?ということなんです。

重大なのは

『私達「民」の法に対するあまりにもの無知さ。この状態を生み出しているもの。そしてその状況が放置されている状況』

なのにそこに気付かない、誰かが気付かせないようにしているのか?それとも私達が揃いも揃って阿呆なのか?そこは分かりません。

しつこいですがちょっと並べてみます。民主主義という事を語るにおいて。。

①【私達「民」の意志の反映させるためのツールとして機能はしていると言えるかどうか分かりませんが、選挙で選んだ私達「民」の代表が国会に行き議論の上、法治国家における支配者たる法律を作っているというタテマエは維持運営されています】

②『私達「民」の法に対するあまりにもの無知さ。この状態を生み出しているもの。そしてその状況が放置されている状況』

並べてみて、どっちが世の中で語られているか?と考えると圧倒的に①ではないでしょうか?どう思いますか?

。。。。

わたしたちのこの国のこの街で採用されている間接民主主義とか代議制とか言われているやつは、いってしまえば私達全員が投票しなければ機能しません。
投票する人が減れば減るほど、組織票等の禁止されてはいないけど、民主主義の根底を揺さぶる寝技の効力が大きくなる構造なのです。そして今のこの間接民主主義はこの組織票や組織標的原理によって機能不全に陥っているのです。

よって投票率が上らない事が問題なのですが、そこで議論されるのはやはり、

①【私達「民」の意志の反映させるためのツールとして機能はしていると言えるかどうか分かりませんが、選挙で選んだ私達「民」の代表が国会に行き議論の上、法治国家における支配者たる法律を作っているというタテマエは維持運営されています】

これが機能しているのかどうか?もっと違う風にしたほうがいいんじゃないか?のようなことばかりで

②『私達「民」の法に対するあまりにもの無知さ。この状態を生み出しているもの。そしてその状況が放置されている状況』

これには全く目が向けられていない。

考えても見てほしいのです。「よく知らないもの」に対して興味を持てますか?行動を起こせますか?

野球で例えるなら、野球のルールも、チームや選手についても全くな無知の状態で野球場に行こうと思いますか?

更に比較対象として厳密さを担保するために追加ルールとして、

その野球場では一人で静かに黙って観戦しなければならない。周りの人と盛り上がってはいけない

という絶対ルールがあるとして、そのような野球場に野球のルールも、チームや選手についても全くな無知な人が行きたいと思いますか?行くと思いますか?

実際に投票場というものは、行ったことのある人なら分かると思いますが、「一人で静かに周りの人と喋らずに投票」するようになってます。

私が思うに今、世の中が違和感だらけなのは、法治主義と民主主義を謳っているのにも関わらず

『私達「民」の法に対するあまりにもの無知さ。この状態を生み出しているもの。そしてその状況が放置されている状況』

という、ありえない状態であり。更にはこのことが問題視どころか話題にすらあまり挙がらないという、あり得ない状態にあるのが原因だと思っています。

専制主義の時代であった江戸時代の「民」と本質的に同じメンタリティなわけです。

やはり義務教育において法律というものが全く触れられていないのが根本的、構造的な大問題なのかなと感じるわけです。

この国では法律を「学校」で本格的に学ぶのは大学の法学部くらいのもので。
いや、これは語弊があるな。
少なくともティーンネイジャーが法律を学ぶ場合はほぼ独学になるわけです。

法とは国語や算数のようなノリで誰もが基本的に身についているものではないのです。
知りたい人が知るアクセサリーのような学問になっているのです。
こんなにも一大事なのものなのに。

おかしいとは思いませんか?

おかしいとは思いませんか?

おかしいとは思いませんか?

私はとてもおかしいと思っています。

おかしいと本格的に気付いたのは冒頭に書いたように三十代半ばに1年ほど法律を勉強した時でした。あれからもう5年以上たったのに何も行動出来ていない。

どうしたらいいのか分からないのです。
 
が、結局の所、全ての行動は準備なのです。

「知ること」と「伝えること」

これは幸いなことに今の時代はいつでも誰にでも出来るのです。私にも。

完璧になるのを待ってたら生きているうちに、一行の文すらも伝えることが出来ないので、とにかく出す。伝える。

出すために知る。

1ミリでも前進。人の理解などはこちらからは求めない。それを求めすぎると止まってしまうのです。

もちろん合法的にです。

私の最初のターゲットは薬機法です。

薬機法という法律には従います。

が、薬機法という法律はおかしいと私は感じています。そう書くことは法律違反ではないので。

私の直感では、「国民の健康を守る」という建前のもと、確かに一部はそのとおりかもしれないけど。。
この法律は表現の自由を侵犯している。既得権益者の利権のために存在しているというのが本義。この日本という国の人々に根付いている医と薬というモノに対する狂信者的なあり方が許してしまっている暴走と、私は捉えています。 

私のこの直観が正しいかどうか?

そんなことを気にしていたら位置も進まないので、とにかく出す。

私は私の文章を読んで下さる全ての方々に、「読者としての自己責任」を常々、強く要求していますので🤣🤣🤣🤣

私はとにかく出すのですー。

「気に食わないことは絶対に放置しない。自分の感情と思考と行動を一致させる。その意味で誠実である」

これが認知症をくぐり抜け90歳を越えても認知機能を死守している人々に共通して見られる在り方であると、

私は勤務先の老人ホームで学んでいます。

空気ばかり読んで自分を出さないと認知症になりやすいと思いますよー

さ、まとまりのないこの文章に終止符を打ちましょう。

ゆる〜く、仲間を募っています。

仲間になって何をするか?

それを定めるのもまた、自分自身の責任の内側にあるという人を募っています🤣🤣🤣🤣

↑↑↑↑

なんの募集だよこれ🤣🤣🤣🤣

でもね、私は250歳で死ぬまで膨大な時間を持ってはいますが、

責任というものを自分で背負うことで得れる自由を楽しむ心を全く持たない人と関わるのは

なんかちょっと時間の無駄というか。。

おもしろくないんですよねー🤣🤣🤣🤣

データとかエビデンスとかでいうと、

誰かの発言に対して「それにはデータやエビデンスはあるのか?」とかいう言葉を使うあり方には責任を背負うことによる自由を楽しんでいない気がするのです。

エビデンスがあるかどうかはググればザックリは分かるので

「ちょっと調べてみたところ、それには多分明確なデータやエビデンスはないと思うんだけど?その上で何故そう思い、そう発言するの?」

という返しは出来ると思うのです。これが責任を背負い自由を味わっているあり方なのかなーと、思うわけです。

これは1例に過ぎませんが、、、

これは私はあらゆる局面でそう言うあり方を選択するという宣言であり。そういう人が増えたら楽しいなという展望であり。そういう人を増やし合って面白い世の中にするという私の選択です。

この国では古来より

「責任を取る=死」
「責任を取らされる=死刑にされる」

という風潮が異常に強いので責任と言うものをとにかく避ける、逃げると言うのが行動原理に刷り込まれるのもまた致し方がないと考えます。

今この瞬間思い付いたのですが、この日本に生まれた人間は発想の根幹にトランプのババ抜きの原理が根強く横たわっているのでは?

「とにかくJOKERを背負わなければ人生勝ち!!
そのためには他人にJOKERを押し付けるのが積極的生き方。能動的生き方。
そのためには手段を選ばないのもまた強さ、崇高さ」

そう、あまりにも無機質というか機械的な反応に見えて、自由を感じないのです。でも、自由に行動しているかのような感じもあり、やはり踊らされている不自由さを感じる。

これまた、いま瞬間、ビビッと来たのですが。。
私の愛する作品である『進撃の巨人』の主人公であるエレン=イェーガーに対して感じる正当性とグロテスクさという二律背反を説明する1つの暫定解答が今この瞬間、自分の中に生まれたのです。
とても幸福です🥰🥰🥰🥰

私はストレングスファインダーというツールによる採点によれば、あらゆる強みが『着想』という主才能に収束するような極端な着想人間らしいので、今この瞬間の着想しまくる状態に強烈な幸福感を覚えており、今日はもう起床してからパジャマのまま、完全に過集中ナウですね🤣🤣🤣🤣

私の文章は

「さ、まとまりのないこの文章に終止符を打ちましょう」

と、自分で区切ってからがいつもの本番ですね🤣🤣🤣🤣

やはり文章を書くということは楽しいですね。

「とにかくJOKERを背負わなければ人生勝ち!!
そのためには他人にJOKERを押し付けるのが積極的生き方。能動的生き方。
そのためには手段を選ばないのもまた強さ、崇高さ」

この不気味な原則をありとあらゆる歴史(例えばパッと思いつくのは太平洋戦争時の日本人における各階層、つまり軍部、政治家、官僚、皇族、マスコミ、産業界、民衆のあり方)に適応して俯瞰するのもまた楽しそうです。

さて、いい加減やめないと脳の使い過ぎによる鬱症状が出るのでそろそろやめます。

今日は夜勤なので。

さ、まずは栄養摂取やな

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