【音を立てない

これは人によっては幼少時から御家族から厳しく指導され、身に染み付いていることかもしれませんね。

私は今、改めてこの「音を立てない」をこの身の鍛錬の中軸に据えんとしております。

例えば、かわいそうに、眠ることさえも出来ない狂乱錯綜の極みにある、余命幾ばくもない人が、何日かぶりにやっと力尽きるように眠りについたとする。

少しの物音でも、目を覚まし再び悶え苦しむかもしれない。

「音を立ててはいけない」

それくらいの厳しいイメージを持って音を立てまいと決意した人間の集中力、人間の動きというものは、凄絶と表現するにふさわしいものがあります。

ミリ単位の精密さを持って、身体中の動きを制御し、身体中に目と耳と触覚をつけて、フル稼働する。

自然と姿勢も整う。

崩れた姿勢から発された動作というものは音を立ててしまうリスク。つまりミリ単位の肉体操作を誤ってしまうリスクが高まるので、そうしまいと自然と姿勢が整う、というか整えざるを得ない。

音を立てないために。

これは何気に鍛錬の中軸に据えるに足る、基本中の基本であると同時に、究極の最終目標と言えるのではないかと思い、ワクワクしておるのです。

そしてまたまた、古来の文化、作法、といったものは偉大だなぁと感じるのです。

また、この「音を立てない」は物理的な音だけではなく、例えば世の中に対しての振る舞い、人間関係における「音を立てない」にも通じるのだと気付きます。

こうも音を立てて「しまう」自分の動作と肉体、そして精神のなんと脆弱たることか?

ヨーガの経典たるヨーガ・スートラに

「アーサナ(いわゆるヨガのポーズのこと)は安定していて、なおかつゆったりしたものでなければならない」

というものがあります。

安定していていて、なおかつゆったりでないと、「音」を立ててしまう。

「安定していて、なおかつゆったり」を果たすための指標として音を立てないようにする。

逆に「音を立てない」を果たしたいのであれば、安定していて、ゆったりである必要がある。

これは物心両面において然り。

また、音を立てる事は必ずしも悪いことではない。我が意に反して音を立てて「しまう」というのが、未熟ということ。この身心を制御する事を可能とする集中力と強靭さこそ求めるものであり、更にはその制御すら必要となくなり、手放すまでもなく、離れていき、必要な時に必要なだけ実現する。

流水のように。

流れるまま、されど流されることもなく。

嗚呼、あまりにもの道の遼遠たるを感じ、歓喜に慄えております😊

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