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令和六年四月十九日 神泉苑(しんせんえん) 京都市中京区/平安神宮(へいあんじんぐう) 左京区/建仁寺(けんにんじ) 東山区

この日は夜、京都でクライアントと会食。折角なので一泊二日で主に龍にゆかりのある寺社参拝の予定を組む。今回は初日分。
朝8時過ぎに京都駅に到着。ここから嵯峨野線に乗り換え二条駅で降りる。先ず目指すは神泉苑。


神泉苑は、延十三年(794)、桓武(かんむ)天皇により禁苑(一般庶民は入苑を許されない天皇のための庭園という意味)として造営された。 平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、 南北四町東二町の規模を有する苑池だったらしい。

鳥居をくぐると庭園に朱塗りの「法成橋」。一つだけ願い事をしながら渡り「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)社」に参拝すると願いが叶うと言われている。


善女龍王社。
天長元年(824)、日本中が日照りの際に、 淳和天皇の勅命により 弘法大師空海は神泉苑の池畔にて祈り、北印度の無熱池の善女龍王を勧請した。 日本国中、雨が降り、人民が大いに喜んだ。 これ以降神泉苑の池には善女龍王が住むと言われている。

社内には龍と弁財天の絵が飾られる。

境内右手には「天満宮」「弁天堂」「鎮守稲荷」が鎮座する。

弁天堂。左は天満宮。
鎮守稲荷社


善女龍王社の手前にある「恵方社」。台座を回転させ、毎年大晦日の夜に翌年の吉方位・恵方へ祠の正面が向けられるという。

恵比寿神


御朱印は金墨にしていただいた。



神泉苑の後、今回の目的の一つ、京都市京セラ美術館で開催されている「村上隆 もののけ 京都」にバスで向かう。

今展で最大級の面積を占める「四神と六角螺旋堂」と題される展示の「青龍」。


平安神宮は駆け足で。平安神宮、上賀茂、下鴨神社、八坂神社など大きな神社は時間をとって改めてゆっくり参拝したいと思っている。

平安神宮の大鳥居。この鳥居と應天門の間に先の京セラ美術館があるので写真掲載の順番は前後している。


平安神宮は新しい神社である。平安遷都千百年を記念して、明治二十八年に遷都のおや神様である第五十代桓武天皇をご祭神として創建された。

神門「應天門」


平安神宮は龍を祀っている訳ではないが、青龍の彫刻があったり、蒼龍楼という楼閣もあったりする。

続いて徒歩で京都最古の禅寺・建仁寺へ。

『建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立された。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称する。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していた。その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなる。正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となる。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄える。その後、天文の大火により諸塔頭及び法堂が焼失したが、ようやく慶長四年(1599年)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈を移築し復興が始まり、徳川幕府移行後も保護を受け堂塔が再建修築され、制度や学問が整備された。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となる。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたる。』(公式サイトより)


広いお寺であるため時間の都合上、法堂(はっとう)天井画の「双龍図」と方丈襖絵の「雲龍図」の二つに拝観を絞るが、生憎、海北友松による雲龍図(高精細複製品)はこの二日間に限り法要があり拝観できなかった。

こちらが2002年の建仁寺創建八百年を記念して小泉淳作画伯が二年の歳月をかけて描いた大作「双龍図」。畳百八畳分の大きさはインパクト大。

須弥壇上に安置される釈迦如来坐像

たくさんの龍に出会えた第一日目、終了。


龍神ボニーとともに、龍神様の神社を巡る 79

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