ボーはおそれている
前作『ミッドサマー』で話題になったアリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』を観てきた。全然意味わからん!3時間は流石に長いよ!!という映画だったけれど、見終わってからじわじわと色んなことを考えたのでネタバレありで書き殴って見ようと思います。
※以下ネタバレ注意
最初に思ったのは、何だかとても大喜利的な発想で作られているなぁ、という変な感想。『こんな○○は嫌だ』がとにかくたくさん出てくる。『こんなアパートは嫌だ』『こんな隣人は嫌だ』『こんな寝坊は嫌だ』……腕利きの大喜利職人たちがオールナイトイベントで出した回答のように、絶妙な所を突いた『こんな○○は嫌だ』が数珠繋ぎに出てくる。「帰ってきたら部屋のドアに、『毒グモ注意』の張り紙が貼ってある」「静かに寝てるのに、夜中に隣人から、『静かにしろ』という走り書きが投げ込まれる」「飛行機に間に合うか間に合わないかギリギリの時間に目覚めてしまう」どれもめちゃくちゃ嫌だ。「あー分かる、それめっちゃ嫌だわ」と、「そんなこと有り得ないだろうけどそれめっちゃ嫌だ」の塩梅が絶妙で、そのさじ加減が実に大喜利的だなと思った。特に秀逸だなと思ったのは1幕目のラストの一連の流れ。『こんなバスタイムは嫌だ』から『家にヤバいやつがいて外に飛び出したら更にヤバいことが起きた。どんなの?』になり、『こんな警察官は嫌だ』を経て、『最低最悪の交通事故とは?』で締める。警察官とのやり取りはほぼチョコプラさんのコントだったし、「全裸で救急車にはねられたあと、たまたま居合わせた通り魔にアイスピックで滅多刺しにされる」というのはバカリズムさん級の回答だ。
随分前の話だが、『マルコヴィッチの穴』の映画評で、「これはドリフのコントのような発想で作られている。『もしもジョン・マルコヴィッチになれる穴があったら?』、『もしも天井の低い部屋があったら』というコントだ」というのを読んでなるほどと思ったことがある。志村けんさんも著書の中で、ホラー映画をよく見て参考にすることがあると書いていた。人を笑わせることと、人を怖がらせることは方程式が似ているのだ。そういえば芸人を辞めて怪談師になった人も何人も知っている。『フリ』を効かせて、日常からいい塩梅にずらした『オチ』で笑わせる。怖がらせる。それは真逆なようで同じことなのかもしれない。そういえば『ミッドサマー』も、『こんなお祭りは嫌だ』、『こんな旅行は帰りたい』で作られた映画だったように思う。
『ボーはおそれている』に話を戻そう。2幕目以降は、大喜利のキレは変わらないが、回答ペースは少しずつ段階的に緩やかになっていったように思った。最初にシンプルな大喜利を見せて、次は1つのお題を長めに引っ張ったり少し寸劇形式になったりして見せ方を変えるのも大喜利ライブの定番だ。森のコミュニティの辺りは少し展開が冗長で眠くなってしまったが、それさえ計算ずくなのでは?と思ってしまった。この映画はこんな感じっす、このまま3時間いきます、寝るならどうぞこの辺で……そうやって寝かし付けたあとに爆発音で目を覚まさせ、「寝てていいよなんて嘘でしたー!寝てんじゃないよ!!」とドッキリを仕掛ける。これもお笑いの定番の流れだ。
最終盤にかけては、また強めの大喜利で畳み掛けてくる感があった。『最高で最悪なセックスとは?』、『屋根裏部屋にあったトラウマの原因、どんなの?』、『こんな母親は嫌だ』しかしそれは表層的なものだ。もっと何かがあった。しかしラストだけでなくおそらく全体的に織り込まれてあるだろう、西洋的な宗教観や死生観、社会的な規範や親子関係は、残念ながら僕にはよく分からなかった。同じく主人公の造形の根幹を成しているだろう精神的な病に関する知識もそこまで持ち合わせていない。「この映画は何を言いたかったのか?」「これはどういうお話だったのか?」「あのラストはどういう意味だったのか?」僕はどれもよく分からないし、当然何も説明出来ない。しかし折り重なった幾多のシーンやエピソード、イメージやセリフの数々が心の奥の方にズシンと響く何かを残した……ような気がしている。でもただ単に、悪趣味な大喜利ライブに付き合わされただけというような気もする。そう考えると、『3時間ある映画、こんなラストシーンは嫌だ』みたいな終わり方だったようにも思う。ひとりよがりで自己満足的な芸術表現はよく自慰行為に例えられるが、最低で最高なオナニーを見せつけられて清々しい気持ちになるような、そんな映画体験だと言えるかもしれない。
『ボーはおそれている』、いい映画でした。たぶん。