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へやにふたり

二十歳の頃、映画の養成所に通っていた時に卒業制作で撮った作品は、『へやにふたり』という短編アニメーション作品だった。

アニメーションといっても、絵を描いて動かしたわけではない。実写の、人間を少しずつ動かして一コマずつ撮影する、ピクシレーションと呼ばれる技法を用いた作品だった。一コマずつ撮影することで、どこかギクシャクとした、違和感のある動きに見せることが出来る。そういう技法である。

ストーリーはこうだ。一コマずつ少しずつ動いて撮影されたギクシャクした動きの男が、女と歩いてくる。女は少しずつ動いているわけではなく、映像の上ではピョコピョコと常にせわしなく動き回っているように見える。男は女を部屋に招き入れる。変わらず女はせわしない。男は女にジュースを振る舞い、何となくテーブルに向かい合って座るが、2人の時間は噛み合わない。そのうち部屋にある色々な物、本棚の本、カーテンまでせわしなく動き出す(一コマずつ動かして撮影した)。ややあって不意に女が動きを止め、口を開く。「やっぱり今日は帰ります」男は女を送っていく。最後まで2人の流れる時間は違ったままなのであった……そんな映画だった。

作中の男は僕自身が演じた。一コマずつちょっとずつ動くのはまあ大変だったものだ。当時は奥手だった自分の、女性というものに対するわけ分からなさとか、大学中退して普通じゃない時間の流れに身を置くようになった自分の焦燥感とか。コミカルなピクシレーションの動きの面白さをメインにしつつも、なんかそういうテーマ性も込めたつもりだった。講評では、「あのまま帰るのはないだろ」「セックスシーンがあればよかった」なんてことを言われたりして、そういうんじゃないんだよと内心憤慨したものだが、今思えばまあその期待は分からないでもない。

卒業制作は劇場で一般公開された。声を掛けて見に来てくれた高校時代の友人が、「2人の速さは逆じゃないの?」と感想をくれたのを覚えている。大学を辞めて好きなことをやっているお前は周りよりも早く動いているんじゃないのか。そういう理由だった。真面目に大学に通い、就職を考え出す周りの友人たちに、僕は置いていかれるような気持ちがあった。世界が早く動いているように見えていた。でも、そういうことに縛られずに好き勝手やっている自分に対して、逆に先を行っているように思う人もいる。その感想には随分と救われたものだ。

今も変わらず、生き急いだり立ち止まったりしながら創作の場にいる。目まぐるしく進む世間に置いていかれるような気持ちになったり、逆に周りを置いてけぼりにしたような気持ちになったりする。何にせよ生きるというのはそういうことなのだろう。そう思うとまあ、二十歳の小僧が撮った作品にしては悪くない映画だったのではないかと思わないでもないっすね。

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