見出し画像

「人は意地悪なわけでもなければ、非情なわけでもない」

人は意地悪なわけでもなければ、非情なわけでもない。
ただ、忙しいのだ。

――スティーヴン・プレスフィールド
(アメリカの作家・脚本家)

突然ですが、独り言は多い方ですか?
僕自身、採点したり添削したりしている時、叫んだりうめいたりツッコミを入れたりと、何か言葉を発しながら作業していることが多い気がします。

ところで、独り言に二つの種類があることを、ご存じですか。
一つは、誰にも聞かせる気のない独り言――なんて言うと「独り言っていうのは、そういうものなんじゃないの?」と言われそうですが、違います。
もう一つ、誰か話を聞いてくれないかなぁ、という「さぐり」の独り言があります。積極的に話しかけたいわけじゃない、伝えたいわけじゃない、でも、誰か聞いてくれないかな、あわよくば、話に興味を持ってくれないかな……そんな独り言です。

Twitterは「つぶやき」なんて呼ばれながらも、そこにで書き付けられる言葉は、「ささやき」「吐息」のようなものから「叫び」「吠え声」まで、本当に多種多様です。もちろん、独り言もたくさんあります。ただ、さっきの一つ目の独り言は少ない。誰かの目につく場所に書かれた独り言は、どうしても二つ目の色合いが強くなります。

考えてみれば、ネット空間に言葉を吐き出すという行為は、とても孤独です。
深夜の街角で弾き語りをするような……周りが真っ暗なので、観客がいるかいないか分からない。いたとしても、手拍子をしてくれるでも、歓声を上げてくれるでもないので、やっぱりいるかいないか分からない……
孤独を感じると、そこにいることが辛くなってきます。だから、ネット上には、見たり聞いたりしている側が「ここにいるよ」を示せる仕組みが色々と存在します。
「拍手」や「いいね」や「スキ」は、その分かりやすい例です。「リツイート」ももちろんそうですし、「既読」だって、そこに人がいて、こちらの言葉を聞いているということを教えてくれます。

新型コロナウイルスの影響で、オンライン飲み会が色々なところで開かれています。僕も何度か、友人や同僚とやってみました。その時に、興味深い話を聞きました。オンライン飲み会を終える時のマナーについての話です。
いきなり、ぶちっと通信を切ってしまうと、一人ぼっちで部屋にいる状況に強い孤独感を覚えてしまう。だから、まずは映像だけをオフにする。音声ではまだ繋がりながら、「じゃあね」とお互いに声を掛けつつ、音声をオフにする。そして最後に、退出を押して会を終える、というのです。
ばかばかしいと思います? でも、日常生活の別れ際を考えてみると、「ぶちっ」と関係が切断されることって、ほとんどないんですよね。「じゃあね」と言った後、歩き始めて少ししてから振り向いて手を振ったり、「じゃあね」と言いながらもずるずると話をしてしまったり。あるいは、何人かで一緒に学校から帰る時、校門で別れる人、駅まで一緒の人、渋谷まで一緒の人、なんていう風に、少しずつ人が減っていく――よくある光景ですよね。
いくらネットを使いこなしても、人間関係や会話の距離感は、身体感覚を離れることが難しい、ということなのでしょうか。

ネットでのコミュニケーションや、発表・表現の機会が増えれば増えるほど、このような孤独感とは無縁ではいられません。そんな時、今日の言葉は大きな力をくれます。
誰も僕の言葉に耳を傾けないかもしれない。僕の表現に見向きもしないかもしれない。でもそれは、「意地悪なわけでもなければ、非情なわけでもない」のです。
人々は「ただ、忙しいのだ。」
そこに誰もいないからといって、それが即こちらの実力不足、という話にはならない。本当にただ、みんなが「忙しい」だけなのです。
だとすれば、僕たちが何をしなくてはならないのか、はっきりしてますよね。
誰かが通りかかるのを、ただ待つだけです。ちょっとの寂しさを噛みしめながら、それもまたネットという街角の味わい、なんて思いながら。

Photo by Atharva Tulsi on Unsplash

この記事が参加している募集

オープン学級通信

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?