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「二十回くらい使った」

よくわからないけど二十回くらい使った紙コップをみたことがある
――飯田有子
(日本の歌人)

さて、これは何でしょう。
読んでいるこちらの方が、「よくわからないけど」という気分になったかもしれませんが、これも短歌です。
音数で切るとしたらこんな感じでしょうか。

よくわから/ないけど二十/回くらい/使った紙コップを/みたことがある

音の数は、五/七/五/十/七――
十音の字余りを除くと、音数はそれほど破格なわけではありません。
それよりも、言葉の切れ目と音の切れ目がずれていることの方が気になります。
実際、先程の切り方で声に出してみると、ひどく落ち着かない感じがします。

そんな奇妙な音で描かれる光景もまた、落ち着かない。
「紙コップ」は本来、使い捨てです。
二、三回ならまだしも、「二十回くらい使った」というのは、何ごとでしょうか。
一方で語り手は、すこし冷めた様子で「よくわからないけど」と言う。
言ってしまう。
語り手は、古びた「紙コップ」のことが、気になっているはずなんです。
飲み口が湿って毛羽立ち、今にも破れてしまいそうな様子から、目が離せないはずなんです。
それなのに、空想したり妄想したりせず、「よくわからない」と言えてしまう。
いや、もしかすると、「よくわからない」と断言せずにはいられないのかもしれない。
言い知れない緊張感が、そこには漂っているのかもしれません。

僕たちの日常には、普通では考えられない奇妙なものが入りこんでくることがあります。
途中で切断されたみたいに、どこにも繋がっていない階段――
かつて川だった場所が埋められ、何も渡すことがなくなった橋――
建物が取り壊され、空間を隔てる役目を失った門――
かつての建築物が、環境の変化によって実用的な意味を喪失した姿。
赤瀬川原平らは、それらの物体を「超芸術トマソン」と呼びました。
そう、意味を剥ぎ取られた実用品に、彼らは芸術を見たのです。
(気になった人は、「トマソン」で画像検索してください。
きっと「よくわからない」のに目が離せないはずです。)

「二十回くらい使った」ようにみえる「紙コップ」は、捨ててもらえなかった。
そして、捨ててもらえなかったからこそ、未だに「紙コップ」として存在しているのです。
日常の風景のあちこちに、取り残された何かが転がっています。
そこにかぶせられた覆いを剥いでみましょう。
すると、見たことのない風景が広がっているかもしれません。

Photo by Artem Sapegin on Unsplash

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