「それだけで一つのジャンルなのだ」
私の映画はどんなジャンルにも属していない。
それだけで一つのジャンルなのだ。
――デヴィッド・クローネンバーグ
(カナダの映画監督・脚本家)
ジャンルというのは、とても便利なものです。
自分が好きなものを手掛かりに、新しいものと出合うための旗印になってくれます。
ぼんやりとした創作意欲に、向かうべき方向を示す灯台になってくれます。
ジャンルの山を中心に向かって登っていくと、外から見ただけでは分からないコアな作品と出合えたり、逆に山を下っていくと、ジャンルとジャンルの境目には、不思議な魅力の作品が転がっていたりします。
その一方で、ジャンルは時として僕たちの可能性と創造性を奪いもします。
山の頂上の居心地が良すぎて、山のふもとを見くだしたり、他の山の存在を認めたくなくなったりします。
ジャンルとジャンルの境目にあるものを、半端者として排斥したりします。
可能性に満ちた創作意欲に、ありきたりな形を与えてしまったりもします。
人間には、根源的に分類への欲望があるのでしょう。「分かる」が「分ける」と結びついているように、理解には適切なカテゴリー分けが欠かせません。それが、科学と技術を発展させ、人類に繁栄をもたらしました。ですが、分類への欲求は、同時に人種や宗教や言語や思想による線引きを生み、絶えざる分断と闘争をももたらしました。
小学生の頃、「おまえ、何なんだよ」「人間ですぅ」というやり取りを経験したことがある人は少なくないと思います。敢えて今、「人間ですぅ」を口にしてみる。剥き出しの、どんなジャンルにもカテゴリーにも属さない、単なる「人間」として相手や状況に向き合ってみる。
もしかすると、一瞬後には、何かにすがり付いてしまうかもしれません。人種や性別や、職業や生まれといったものに。それでも、時々は意識的にそこから手を放して、何者でもない浮遊感に慣れていくべきかもしれません。
たった一人、自分だけが属するジャンルを、誰かに認めさせるその時のために。
Photo by Rota Alternativa on Unsplash
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