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「われわれは間違った欲求を持っていたのだ」

起こってほしいと望んでいたものがわれわれを幸福にせず、
望んでいなかったものが幸福にする場合、
われわれは間違った欲求を持っていたのだと述べるのが正当なように思われる。

――ダニエル・ギルバート/ティモシー・ウィルソン
(アメリカの社会心理学者)

今日の言葉は、もしかしたら少し難しく聞こえるかもしれません。
それは、言葉遣いのせいだけではないでしょう。

「起こってほしい」ことが、「われわれを幸福に」してくれない。
「望んでいなかったもの」が、われわれを「幸福にする」。
どういうこと?
それじゃ、全く逆じゃないか。

仮に今、「勉強は楽しくない。勉強をサボってやるゲームは楽しい」としてみましょう。
激しくうなずいている人がたくさんいそうです。
ところが、実際に勉強をサボってゲームに没頭している人が、本当に楽しんでいるかというと、そうとも限らない。
「勉強なんかやめて、本気でゲームに打ち込もうよ」という話をして、
「いや、それはちょっと」と返されたことは、一度や二度ではありません。
後ろめたいのかな、とも思ったのですが、話を進めていくと、どうやらそうではないらしい。
ゲームはあくまで息抜き。
勉強は、サボりはするけど、やめはしない、のだそうです。

ここまで読んで、「ああ、望んでいなくても、勉強をすれば幸福になれる、って話ね」と思った人は、ごめんなさい。
僕は、そういう話はしません。
だって、これ、全く逆のパターンも「あるある」なのです。
「作詞作曲して、弾き語りをYouTubeに上げたいんですよ」と言っていた人が、なぜか気が付くと勉強に打ち込んでいる。
「どうしたの? 曲はできたの? 動画は?」と聞くと、
「とりあえず、勉強した方がいいかなと思って」
「音楽は?」
「大学に行ったらやります」
実は、さっきと同じことが、ここでも起きています。
多くの人は、未来の自分のためには「勉強」こそが「幸福」の種であって、「作詞作曲」はそうではない、と考えている。
だから、ひとまず「勉強」に逃げ込んでしまう、というわけです。

「幸福」の考え方には、大きく分けて二つあります。
「今、楽しいことを」と「将来のことを考えて」です(もちろん、両立することも多いです)。
ここで何より重要なのは、主語を「自分が」にすること。
それなのに、多くの人が「自分が」を抜いてしまうんです。
「みんなが、勉強なんてつまらない、ゲームしようぜ、って言うから」
「大人が、音楽なんてくだらない、勉強しなさい、って言うから」

もちろん、息抜きは必要です。
安心や安定を得るために、義務的にこなさなければならないこともあるでしょう。
ですが、それが自分の望みかどうかは、見誤らないようにするべきです。
今、歩んでいるのは、「自分が」幸福になる道ですか?
世間や他の人が言っているだけの「間違った欲求」だったりしませんか?

Photo by marieke koenders on Unsplash

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