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「それはやはりばかげたことだ」

何かばかげたことを五千万人が言ったとしても、
それはやはりばかげたことだ。

――ウィリアム・サマセット・モーム
(イギリスの小説家・劇作家)

世の中では、いろいろとおかしなことが起こっています。
ところが、何がおかしいのか、という話になると、なぜか大論争になる。
明らかにおかしい、と思えるようなことでも、必ず支持する人たちがいます。明らかに正しい、と思えるようなことでも、必ず反論する人たちがいます。
知識も経験もない子どもだから……と言いたいところですが、残念ながら、たいていの場合は、知識も経験も備えたはずの大人の仕業です。

もちろん、正解を導き出すことが難しい問題もたくさんあります。論争が起きること自体が大切な場合もたくさんあります。
でも、あきらかに間違っていることも、たくさんある。
例えば、誰かが誰かをひどく傷つける時、その言葉を正当化する方法なんて、ないんです。なのに、「みんな言ってる」「みんなそう思ってる」という言葉を隠れ蓑にして、自分の気持ちよさを優先する。
「ばかげたこと」は、仮に「みんな」が言ったとしても、「ばかげたこと」です。「ばかげたこと」を相手にする必要なんて、どこにもないんです。

ですが、言われた当人にしてみると、「ばかげたこと」では切り捨てられない、ということが少なくありません。
言う側にとっては、たった一度の「ばかげたこと」だったとしても、言われる側からしてみれば、何人もの人間から投げかけられることになる。すると、「ばかげたこと」だったはずのものが、「意見」や「批判」に見えて来てしまう。
そうなんです。誰も認識していなかったはずの「みんな」の姿を、言われる人だけが目にすることになるんです。言われる人にとっての「みんな」は、本当の意味でみんな――この世に存在するすべての人なんです。手を差し伸べてくれる人が近くにいたとしても、抱きしめてくれる人がそばにいたとしても、束になった「みんな」の暴力は心を簡単に貫きます。

だから、普段から何度も繰り返し自分に言い聞かせておく必要があります。一人では不十分なので、周りの人とも共有しておく必要があります。
「ばかげたこと」はどこまで行っても「ばかげたこと」だと。
それが、仮にこの世の全ての人が言っていることだとしても、やっぱり「ばかげたこと」だと。

Photo by J W on Unsplash

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