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【究極思考00025】

 ルネ・マグリットは、パイプの絵(=表象)を描き、「これはパイプではない」とタイトルを付けた。それは、これはパイプの絵(=表象)であり、パイプそのものではないという言葉遊びでもあったのだろう。ミシェル・フーコーは、この幾つかの作品に反応し短い論文を発表さえした。しかし、マグリットの主張は、いつだったかジャン・リュック=ゴダールが、映画とは馬の映像を馬だと信じ込ませる詐術であると語ったことを思い出させはしなかったか。
 マルセル・デュシャンは、「階段を降りる裸体No2」という立体派的に描かれた裸体が階段を降りてくる抽象と具象の中間のような作品を発表しようとしたら、仲間から裸体は動いては立体派的ではないと非難され、芸術家たちの議論に呆れ果てた。その腹いせもあったのだろう、その後、デュシャンは、男性便器の向きを変え、R.Muttとサインを施し、「泉」(これは日本語訳だけれど、厳密には噴水のほうがニュアンスは近いらしい)とタイトルを付し、美術展に出品しようとして芸術家たちの間で喧々諤々の議論を呼び、その後、美術館に展示されれば、それは芸術(幻術?)なのだと芸術のからくりを明らかにしてしまった革命的な作品と過大評価されることとなる。人によれば、それこそ現代アートの起源だと指摘している。
 時を隔てて、キャンベルスープで有名なアンディ・ウォーホルは、ブリロという商品を梱包する段ボール箱を木製の箱とシルクスクリーンによって、ほとんどそっくりに再現した。「ブリロ・ボックス」である。それは、デュシャンの「泉」を更に発展・展開させた作品にも見える。1980年代に至ると、商品そのものをガラスケースやアクリルケースに収納したまま展示したり、棚や水槽に商品を収めたり、商品そのままが作品化されるに至る。シミュレーショニズムまたはアプロプリエーションだ。
 それらは、結局、何かを表現しているわけではなく、藝術をしか、現代アートをしか意味してはいない、現代アートの典型的な作品だと言えるだろう。

 今更だけれど、最初に記載した「マニフェスト」と内容が一部だが重複していたことを、ここでお断りしておきたい。

絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。
パスカル『パンセ』101ページ「第二章 神なき人間の惨めさ」より

例えば、パスカルはこんな事を言っている、「本物は平凡で、誰も賞(ほ)めやしないが、その本物を、いかにも本物らしく描くと賞められる、画家とは、何んと空しい詰らぬ職業だろう」。
小林秀雄『近代絵画』7ページ「ボードレール」より

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