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可哀想な人

最初の投稿からだいぶ経ってしまった。この間、予想以上の方から「スキ」やフォローをしていただき、大変有り難く思っている。

今、僕の脚本を使った朗読劇「不思議の国のラビン」が、御茶ノ水にあるKAKADOというライブハウスで上演されている。これは、原作者がいて、それを僕が脚色したものだ。原作者と脚本家というと、つい最近、悲しい出来事があった。それを意識しないわけにはいかなかったが、それでも僕は、脚本家として最善を尽くすため、原作者の意に沿わない改訂もした(勿論、最終的にはOKをもらっているのだが)。

実際の現場でも、役者の降板や交代があり、また本来生歌を披露するはずだった俳優が、喉の不調のため、急遽歌唱を取りやめ、その影響で他の俳優の歌も、生歌から収録した音源を流す方式に変わるといった、アクシデントが連続したと聞いている。それを何とか乗り越えての上演だった。

脚本家の立場でいえば、生歌がなくなった時点で、かなり残念だった。それでも、妥協案ではあったが、収録した音源だけでも流してもらったので、最善は尽くしてもらったと思っている。あとは、これがどう伝わったかだ。


僕のお客様に、いつも見に来て下さるのだが、絶対に誉めない方がいる。勿論、お客様は何を言ってもいいので、貶されても文句はない。ただ、気になるのは、頑なに誉めないことだ。「ここがよかった」「この人はよかった」といった部分的な賛辞はあるものの、全体は必ず貶している。特に、脚本や演出に関しては、容赦がない。ご本人の談によれば、商業演劇を見に行っても、やはり貶しているので、僕に対してだけ辛いわけではないそうだ。

そうなってくると、何だかこの方が可哀想になってくる。芝居は、映画よりも木戸銭が高い。物を食べながら見ることも(基本的には)できない。そんな状況で、わざわざ遠くから足を運んで下さって、いつも貶し言葉しか思い付かない程嫌な思いをしているのだとしたら、この方は一体何のために観劇されているのだろうか。可哀想というより、ここまでくると、哀れとさえ言える。

一般論だが、何かに対して批判的なことを言うと、恰も自分の方が上に立っているように感じられる。所謂「マウントを取る」というやつだ。まさかとは思うが、この方はこの「マウントを取る」ことの快感を得るためだけに、高いお金を払って劇場に足を運んでいるのではないだろうか。芝居の内容はどうでもいい。粗さえ見つけられれば、それを指摘することで、自分が快感に浸れる。そんなことのために、劇場に行くのなら、それは演劇ファンでも何でもない。単なる可哀想な人、もっと言えば、イタい人だ。結構いいお年なので、それが際立つ。


繰り返すが、お客様は何を言っても許される。一つの作品でも、感じ方は人それぞれだ。それに文句をつけるつもりはない。自分の手を離れたら、もう僕は何をすることもできないし、するべきでもない。

それでも、人の作ったものに難癖をつけて、悦に入っている人を見ると、やはり可哀想だな、と思ってしまうのだ。自分で作れないから、批判することによってしか、マウントが取れない。そういう人には、心底同情する。

幸い僕は、作る側にいる。どうマウントを取ろうとしても、そういう人には「じゃあ、あなたが作ったものを見せて」と言えてしまう。

誰が何と言おうと、僕は自分が作ったもので勝負するしかない。

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