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フォトウォークという行為を見つめ直す。

 今年、ずっと続けていたことがある。それは写真を撮ることだ。2019年末にFUJIFILM X-T30とレンズを購入し、外出するときにはバックへ入れていた。

 東京へ引っ越してすぐは、転職活動をしながら、街をふらふらとしていた。今まで東京には何度も来ていたが、美術館の特別展を回るなどの予定を決めていたため、比較的マイナーなスポットに行くことがなかった。だから、知らない場所に行くことや、特定の期間にしかやっていない行事を目的に出掛けては、写真に納めた。特に節分祭は、今では撮れない密な状態で、節分豆の争奪戦を楽しんでいたから印象に残っている。

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 転職先が見つかり、土日を中心に遠出をしようと考えていた時、コロナの流行が目立つようになった。政府は、「密閉空間」「密集場所」「密接場面」の三密を避けるように、国民へ自粛を求めた。また、飲食店には営業時間を短縮するように要請した。そのため、私は出かけるのを避けるようになった。

 しばらく家にこもっていたが、ストレスが溜まるばかりであった。このままでは精神的に不安定になってしまう。そうなれば、感染を防げたとしても仕事を続けられなくなる。考え方を変える必要があった。
 今の状況で重要なのは、三密を避けることである。だから、3つの密のうちでどれかがない場所であれば、ずっと滞在しても構わない。例えば、近所を散歩することは密閉空間を避けているから、三密にならない。散歩のついでにカメラを持っていけば、1人でフォトウォークができるではないか。
 このような思考の過程を経て、フォトウォークを再開することにした。いつもは早歩きで家に向かっている道を、カメラ片手にキョロキョロと見回してみる。すると、以外にも多くの気になるものがある。なぜ見逃していたのだろうと思いながら、ひとつひとつと向き合って撮影していった。
 帰宅すると、写真をパソコンに取り込み、大画面でじっくりと確認した。以前よりも撮影する絶対数は減ってしまったが、写真に向かい合う時間は、倍以上も長くなっていた。

 次第に感染者数も落ち着いてきた頃、外出の自粛要請が緩和された。それを知った私は、フォトウォークの範囲を広げることにした。以前訪れた道を改めて歩くと、元々は特に何も感じなかったのに、「このようなものがあったのか」という気付きの回数が増えていた。
 写真の確認は、行く場所の多様性が大きくなっても、同じくらいの時間をかけて続けていた。すると、何度も撮影している被写体がいくつか存在することに気がついた。

 中でも特に好んでいるのは、電線である。
 電線は景色を切り取る。ピンと張られていれば直線に、だらりと垂れ下がっていれば曲線に切り取る。
 電線がいくつも交わって、小さく空が切り刻まれていることもある。
 一方で、交わらずに平行に電線が並んでいて、大きめの空間が用意されているときもある。電線自体は風でなびく以外に、大きく動いたりはしない。しかしながら、自身が動くことで、切り取られる側の景色をスライドさせられる。だから、大きめの空間があるときは、景色に存在する物質の中で何を入れるかと考えながら、何度も移動して撮影を行った。

 また、雨が降った際には水たまりを撮影していた。雨で道の一面が水浸しになると、全体の景色が水に反射される。しかし、水たまりのみがある場合は、一部分しか景色が反射されない。そして、水面に浮かぶ像はぼんやりとしていて、幽玄さが感じられる。

 これら2つの被写体には共通点があった。それは、風景にフレームを生み出すものであることだ。電線や水溜りで切り取った風景を、更に撮影や現像の過程で更にフレーミングする。その試行錯誤を私は楽しんでいるのかもしれない。

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 更に時期が経っても、コロナの感染者は増減を繰り返して、一向に沈静化しなかった。現在の状況が長期化することは、誰の目にも明らかにだった。フォトウォークを続けながら観察していると、以前の状態から大きく変化した被写体があった。
 それは看板である。
 製品の広告が消えて、「広告募集中」という文字列と連絡先の電話番号に置き換わっている看板が増えたのだ。広告が「広告」を求めているという矛盾した状態は、少しの数であれば面白いと感じる。だが、増加し続けると不安を感じさせる。そして、文字列すらなく、白紙の状態となった看板もあった。更には、看板が取り外されて、空間を囲むフレームへと成り果てた場所もあった。
 白紙や無の空間は文字列と比べて、物理的なデータ量はとても小さい。しかしながら、見たときにその背後にある関係者の苦悩を感じさせる。よって、実際の情報量は、「広告募集中」よりも大変大きいと感じられた。

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私は以上のように、被写体と向かい合ってきた。
振り返ると、被写体の特徴を分析し、その特徴が生きるように写真を編集する行為は、現状に対する不安から自身の気を逸らさせる作業としての役割があったと思う。また、被写体の特徴から、自身の視点を見直す対話としての役割もあっただろう。

Instagram上には、「映え」を意識した写真が今もたくさん並んでいる。以前は、自身も多くの人に注目されるような写真を撮るために、フォトウォークを行っていた。
コロナ禍での特殊な状況で向かい合ったからこそ、そのような視点に気づけたのではないかと思う。

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