上海 2004 回想Part 1


気だるい身体を引きずるように朝の日課は、
マック。

老人たちが太極拳をしたり、ポーカーに興じているのを横目に敷地内の広場を通り過ぎて門を出ると、絶え間なく通り過ぎる車と自転車を避けるように大通りを渡る。

リヤカーにペットボトルや資材を2階の高さに届くほど積み上げ自転車で引いている人もいる。
流れを遮らないように気を使った。

華東師範大学が近いこの街は午前11時になれば飲食店が開くが、それまでマックでコーヒーを飲みつつ人間観察で時間を潰すのが日課だった。

上海では朝から1人で外食する人は、あまりいない。自炊をしない私は朝食にありつくのに一苦労。

朝食を終えると、公共バスに乗り武寧路にあるスポーツジムに向かう。

この頃はすでに持病が悪化していて激しい運動は出来なかったが、
動かないと更に悪くなる恐怖もあり、
毎日身体を動かすようにしていた。

ウォーキングを30分ほどしてウォーミングアップをしたら、カンフーの個人指導の先生と軽くスパーリング。

よく目眩や低血糖症状のような冷や汗が出るので私のペースで練習できるように個人指導をお願いしていた。

バンコクでもムエタイのジムに通っていた。
これが当時の自分にできる唯一の運動だった。

最近ではボクシングの選手でもカンフーのような縦拳でのジャブやパンチを練習する方々も多くなっている。

拳を横にした普通のパンチに上から重ねるように縦拳を繰り出すと、

横拳の軌道が変わりクロスカウンターが決まりやすいことに、
カンフーの練習で気づいた。


運動を終えるとタバコの吸い殻が散乱する薄暗いシャワー室で吸い殻を踏まないように爪先立ちで手早く汗を流す。

昼食はジムの一階にある定食屋で。

混み合う店内では、地方から出稼ぎに出て来たばかりの童顔の男女が服務員として注文を取って回っている。 

私はいつも雪菜肉糸麺、日本でいう高菜蕎麦と点心を注文する。

ひっきりなしに入店する客を気にして、最速で食べることにしていた。

食後はそこからタクシーで龍華医院へ。

待合室はいつも人が溢れ混み合っていたが、外国人は特別料金(特急料金)を支払うと順番を早く回してくれるとの事だったので、それでお願いしていた。

型通りのいつもの診察を受けて
漢方薬を処方してもらう。

慣れない異国では大した動きはしてないのに精神的な疲労か身体がすぐに虚脱感に襲われる。

西洋医学での確定診断は受けていない。

慢性疲労症候群か膠原病の類いだと思っていた。

対症療法の免疫抑制剤かステロイドくらいしか処置がないのでは確定診断を受けても意味がないと常々考えていた。

そんなサイトカインも安定しない病状なのに大気汚染の酷い上海に何故来たのか?

その話は別の機会に書いていきたいと思う。

夜は1人で食事することは滅多にない。
どこからか誘ってくれる現地の知人と一緒に食事をするか麻雀の面子として呼ばれることが多かった。

麻雀に呼ばれる時は決まって夕方早くに茂名路にある花園大酒店(日本のオークラホテル系)の23階のラウンジに向かい、そこで時間を潰していた。

夕方を迎える頃になると自律神経が張り詰めてくるので麻雀の前は数杯、ハイボールのように炭酸を入れたブランデーを飲むことにしていた。

23階の窓辺から上海の街を一望していると漠然と孤独感と不安が襲ってくる。

東京の下町生まれで周囲には夕方になると雀荘に集う商店主や工場の経営者が多い環境で育ったためか15、16の頃から麻雀によく呼ばれた。

異国の地で調子を崩して、満足に動くのも
おぼつかない身体で、
未だ麻雀だけは打てる自分に呆れつつ、
皮肉な因果を感じたりもしていた。

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