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「大学サッカーを盛り上げたい」…だから何?

まずはこの方の文章を読んでみてください。


「大学サッカーを盛り上げたい」

最近、この言葉をSNS上で見かけると少し寒気を感じます。

いや、本人は本気でそう思っているんだろうから、そこはリスペクトした上で。
圧倒的な思考と根拠をもとに「大学サッカーを盛り上げたい」と言っているのであれば、その人には申し訳ないです。

でも、なぜか違和感が拭えない。

本人たちは本気でそう思っていても、「大学サッカーを盛り上げたい」というフレーズを安易に使っているように感じてしまうのだ。

じゃあどうやって?
具体的に「盛り上げる」とは?
大学サッカーを盛り上げないといけない根拠はどこ?

私自身も以前までは「大学スポーツ盛り上げようキャンペーン」の真っ只中にいた人間なので、今このようなことを言うのは少し違和感がある。

でも、これが本音なのだ。


まず、「盛り上げる」と「盛り上がる」では、まず言葉の意味合い的に大きく違う。
「盛り上げる」ということは、誰かが意図的にその状況に持っていこうとしているということ。自然発生では決してない。指をくわえて待っていても、「盛り上げる」にはならない。
「盛り上げる」とは、誰かが意図的に作り上げた偶像でしかない。

大学スポーツの世界で、その偶像を作り出さなきゃいけない理由って何なんだろう。

他の学生スポーツとの比較?
プロとの比較?

例えば、高校サッカーでプレーする本人たちが自ら「盛り上げよう」としていることはほとんどない。聞いたことすらない。
確かにテレビで大々的にとりあげられているけど、テレビ局は視聴率を獲得しないといけないから、演出が過激になったりしてくる。感動物語とか、美談とか大好物じゃないですか。
そのスパイラルが年々続いた結果が、今の「盛り上がっている」姿。

だから、比べたところであんまり意味がないと個人的には思っている。
高校サッカー側からしても、「勝手に因縁付けられてるみたいなんだけど、なんなの?」みたいな感じでしょう。
「盛り上がっている」ものに対して、別のものを「盛り上げよう」とする側が変に対抗心を剥き出しにしてもあんまりいいことはない気がする。


改めて問います。

「大学サッカーを盛り上げたい」じゃあどうやって?
具体的に「盛り上げる」とは?
大学サッカーを盛り上げないといけない根拠はどこ?

別に盛り上げようとすることが悪いと言っている訳ではありません。
ただ、何か本質を見失った議論が延々と続いているような気がしてならないのです。


今、日本国内は「大学スポーツ盛り上げようキャンペーン時代」の真っ只中だと感じます。
自分が大学に入学した時には、もう既にその時代が到来していました。

「部の注目度を高めたい」
「お客さんをたくさん集めたい」

よく聞く話です。
それで広報活動に力を入れたり、集客活動を頑張ったり。

ただ、その活動には本当に目的はあるか?
その活動のゴール設定は明確にされているのか?
自己満に陥っていないか?

「なんとなく」
「他がやっているから」

これほど危険な考え方はない。

私も以前までは「大学サッカーを盛り上げたい」「盛り上げることこそが正義」だと思っていた側の人間だった。
でも、活動を続けるうちに、どことない違和感を感じ始めた。

直接的な原因は、上手くいかなかったから

当然、上手くいかなかった原因を考察します。
すると、今まで綴ってきたような違和感が、次々と目の前に現れてきたのだ。
これが、ある意味で大学サッカーを取り巻く現実だった。

結局、「自分たちさえ良ければ」だったんですよね。

「注目度が高まれば〜」
「試合にお客さんがたくさん来てくれれば〜」

結局、この「〜」の部分が「自分たちさえ良ければ」だった。
自分たちが試合に勝てる、とか。
自分たちにだけ恩恵がくればOKだと思っている人が多かった印象がある。

今、大学サッカー盛り上げようキャンペーンの中にいる人たちも、「自分たちさえ良ければ」の考えで「大学サッカーを盛り上げたい」と言っていませんか?


と、ここまで言うのには訳があって。

大学サッカーって決して自分たちの力だけで成り立っている世界ではないと思うんです。
多くの方々に支えられて活動ができています。
大学、OBOG会、協賛企業、地域の方々、、、

そういった方々へのリターンを想定できているか? ということです。
自分たちが受けた恩恵に対するリターン。

これがないから、「自分たちさえ良ければ」と感じてしまうのだと思っています。

例えば、「試合に勝つこと(スコアで上回る)」は何かの終着点でしょうか?
もっとそこから、周りに影響を与えることができるのではないでしょうか?


「盛り上がり」とは、自分たちの”価値”(めちゃくちゃアバウトな書き方ですが)を高めた先に、結果的に副産物として付いてくるもの。自分はそれくらいに捉えています。
そう考えられるようになってから、当然、今まで自分を突き動かしていた熱が消えてしまう寂しさを感じる一方で、どこか目指すべき道が逆に見えたというか、答えのない沼地から抜け出せたような感覚でいます。

そんな私が見出した、私なりの表現の仕方が、早稲田大学ア式蹴球部でのnoteの運用と、カメラへの挑戦です。

上の2つの文章をお読みいただければ、最近の私の一貫したポリシーが垣間見えるかと思います。
卒業するまで、これだけは貫き通そうと思っています。



大学サッカーの世界は、そんなに単純じゃない。
自己中心的な、閉鎖的なサッカー空間に閉じこもっているだけじゃ、現状は絶対変わらない。

課題解決の方法は人それぞれです。
それぞれの環境や文化に合わせたやり方でいいと思います。

圧倒的な思考とそれに基づく実践の先に、新しい世界が見えてくるはずです。

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