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【第6回】 医師への畏怖。怒りという活力 精巣腫瘍

病の語りを聴き、患者さん、聴き手の未来を創るというMedipathyという活動の振り返りです。順不同で更新していきます。

Medipathyとは主に、医療系学生が昨今の教育ではあまり機会のない、患者さんのお話を深く聴くということを目的としています。
誰でもご参加可能ですので、参加ご希望の方は、こちらのリンクのお問い合わせからどうぞー。

今回の方は、精巣腫瘍のUさんです。
今から24年前、長野オリンピックの時期に闘病されたサバイバーの方です。

24年前のがん治療

24年前というと、がん治療のゲームチェンジャー、分子標的薬ができる前です。

24年前となると、僕もほとんど記憶がありません。長野オリンピックの記憶はというと、冬のオリンピックシーズンに流れてくるスキージャンプくらいです。しかもそれは、学校の社会で習う知識のような感じで、リアル感はありません。

24年も経つと、医療もだいぶ進歩したように思います。50代くらいの大学教授が医学生か研修医だった頃の話を思い出し

「僕が学生の時代にはこんな知識なかったな。」
「僕たちが習っていたことは今の1/3くらいだよ。」

と講義でおっしゃっています。それだけ医療が進歩したんだと思います。

24年前と比べて、医療を劇的に進歩させたのは、狙った所だけを攻撃する分子標的薬であると思います。90年代後半から20年代にかけて登場し、今は非常にメジャーな治療で、がん治療以外にも用いられています。

分子標的薬が出てくるまでのがん治療は、正常細胞もがん細胞もまとめて大量に破壊する、いわゆる無差別爆撃のような治療法でした。そのため、副作用も大きく、患者さんに大きな負担をかける治療です。(なお、この治療は今でも現役ですが、改良されています。)

分子標的薬はがんの原因となる箇所をピンポイントで攻撃するため、従来の抗がん剤と比べて副作用は比較的穏やかです。分子標的薬の登場で治療効果が劇的に改善したものもあります。

そのような分子標的薬の登場を区切りとした時、90年代と00年代は医療の転換期だったように思えます。

その転換期の前に20代という若さでがんを患い、再発を経験し、大量の抗がん剤治療や副作用で苦しんだ方のお話しです。

24年前と今でも、通ずるものはなんだろうかと思い、その方を振り返った時、思い出されたのは、畏怖と怒りでした

医師に対する畏怖

お話の中で

「医師は畏怖の対象であった」

という言葉がぽろっと出ました。

畏怖とはおそれ、おののくことを意味します。
24年前はおそらく、“お医者様全盛期時代”で、患者側は畏怖を抱き、提示された治療を有無を言わず受け入れ、ただ平身低頭するのみだったのかも知れません。

ですが、お医者様という言葉は死語になりつつも、医師に対する一種の畏怖というものは残るのではないかと思っています。

どんな治療にも100%はありません。例えば、

「この薬は9割の確率であなたのがんを治します。」

と言われた場合、多くの患者さんは「私が1割に入ってしまったらどうしよう。」と考えてしまうのではないでしょうか。

つまり、医師は希望を与える存在でもあり、その裏に絶望の可能性を与える存在でもありうるということです。

また、経過観察中の定期検査の一場面。

「腫瘍マーカー上がっているな。うーん。再発したかな?」

診断結果が書かれたパソコンを見ながら、ぼそっとつぶやく医師の一言。何気ない一言ですが、あの絶望的な痛みを伴う治療をもう一度やらないといけないのか?と患者さんを一気に谷底に突き落とす言葉にもなり得ます。

患者さんの気持ちの浮き沈みをグラフ化したものを見せて頂くことが多いです。治療から回復まで気持ちが直線的に上昇するではなく、上がったと思ったら乱降下の繰り返しです。なかでも下降する要因としては、医療者の言葉がよく見られます。

もちろん、医師は畏怖の対象ではなく、希望を与える存在でもあります。

「腫瘍マーカーも正常だし、9割、大丈夫じゃないかな?と教授が言ってましたよ。」

この言葉はUさんが研修医から言われた何気ない一言です。

絶望やうつと戦いながら過ごした日々に、研修医が言った何気ない一言を何度も思い起こしたこと。そして、それが唯一の大きな支えだったことを伝えてくれました。

ですが、治療という点において、医師は希望だけを語るのではなく、患者さんのためを真に思い、厳しい現実、時には絶望させることも言わなければならない。それが畏怖される要因になるのかと考えています。

次のテーマは怒りです。

根源的なエネルギーの怒り

喜怒哀楽という人間が持つ感情の中で、一番ワルモノ認定されているのは、満場一致で怒りではないでしょうか。怒るという行為は動物的で周りにも悪影響を与えます。社会的生活を送る上で、抑えるように抑えるように訓練されます。

しかし、この怒りは動物にも共通の根源的な感情であるがゆえに、莫大なパワーを秘めているのではとも思いました。

実際、Uさんは治療中に「絶対死なない確信を得た」とおっしゃっていました。

熱は40度をこえ、視界はぼやけて、虫の息。それでも抱いたこの確信。

そして、初めは医師や看護師に抱いた怒り(実際は一回だけだったそうです笑)、その怒りは「このままじゃ負けられない」という大きなエネルギーを与えてくれたそうです。そして、大きな波がありつつも、現在寛解されています。

哲学者であり、セラピストでもあるエーリッヒ・フロムは、このエネルギーを

“健康への生得的希求-真実への直面によるエネルギーの動員”

E・フロム 聴くということ

として考察しています。また彼の言葉を日本語に置き換えると、火事場の馬鹿力になるでしょうか。

緊急時に人々は自分にあると思わなかった力やスキルを発揮します。
それは、生きるという衝動が極めて強力に脳に備わっているので
生きるか死ぬかというはっきりとした問題になると
それまで現れていなかった量のエネルギーが動員されるからです。

E・フロム 聴くということ

また、彼が実際に経験したことより

結核がひどい女性に医師が
「医学的立場からは、私どもができることはもうありません。あなたが生きるか死ぬかは完全にあなた次第です。」このはっきりした物言いから分かるように、医師は彼女が死ぬ可能性が十分高いと確信していました。

しかし、この処方が効いたのです。

数週間もしないうちに健康状態に変化が生じました。

もし、この医師が善意で言うように「希望を失わないように。万事うまくいきますからね」と言っていたら患者を死なせていたでしょう。
なぜなら、彼女が自身のエネルギーを動員するという措置をとることを医師が阻止していただろうからです。

私がその人の置かれている状況とそれに代わりうる選択肢を鮮明かつ深刻に説明すればするほど、その人自身の緊急エネルギーを動員することができ、回復の可能性に近づくことができる。

E・フロム 聴くということ

フロムのいう緊急エネルギーとは様々な形で出力されうると思います。
そして、Uさんの場合は怒りだったのでは、と思います。
もちろん、人によって様々ですが、これは理性的なものよりも、怒りなどの動物も持ち合わせているような本能的な感情によって出力されるのではと考えています。

絶望と希望のはざまで

生きるか死ぬかの病気に直面した患者さんの緊急エネルギーを発動させること、もしくはその堰を切ってあげることは、医師ないしは医療者の仕事でもありうると思っています。

これが要求されることはごく少ないと思いますが仮にそうせねばならない時、フロムの言うように
甘い言葉や励ましではなく、患者さんの置かれている状況をリアルに、深刻に、毅然と、冷酷に、説明しともすれば畏怖される鬼のような存在になることも必要であるのかな。と考えました。

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