【第7回】 死海のほとり 特発性頭蓋内圧亢進症

Medipathyという活動の振り返りです。順不同で更新していきます。
第7回目の患者さんは特発性頭蓋内圧亢進症のKさんです。

Medipathyとは主に、医療系学生が昨今の教育ではあまり機会のない、患者さんのお話を深く、聴くということを目的としています。
誰でもご参加可能ですので、参加ご希望の方は、こちらのリンクのお問い合
わせからどうぞー。

10代という若さでの発症。症状に伴う体力低下で諦めざるを得なかった学業。そして治療で入退院を繰り返している現在。そして、どうしても手に入れられない普通の生活。

Kさんは社会的・精神的・スピリチュアルな痛みをも抱えていらっしゃいます。

その痛みはナイフで切り裂いたような鋭さを持つものではないですし、殴られたような鈍い音を立てるものでもないです。
社会的に着目されやすいがんやALSのような、メジャーな病気であれば、横の繋がりが多くできるでしょうが、そうでもありません。

Kさんの痛みはおそらく、本人にしか形容できない何かだろうと思います。

そんなKさんの言葉で印象に残っているのが

「私のこの経験が何かの、誰かの役に立つのなら、 
この病気になった意味があったと思える」

です。今回は痛みの意味を探っていこうと思います。

痛みとキリスト教

病がもたらす“痛み”については、あらゆる宗教の中でキリスト教が深い考察や処方を育んできたのでは。と個人的には考えています。

磔と同時にキリスト教が産声を上げたことから、キリストの説く愛と痛みは切っても切り離せられないものだと考えています。
また、痛みに対する処方の例を挙げると、キリスト教が脈々と受け継いできたとして、ホスピスがあります。

ホスピスという言葉の源流は、ローマ・カトリックの巡礼者や傷病者をもてなすところにあり、実際にイギリス出てきた世界初のホスピスはカトリック系ですし、マザーテレサはカトリックの修道女です。
僕はクリスチャンではありません。また、特にキリスト教に強い思い入れがあるわけでもありません。

しかし、そんな僕とは違い、Kさんのバックボーンにはキリスト教があります。

Kさんの病気は死に直結するような病、徐々に体を蝕んでいく病ではありません。

しかし、死という恐怖は感じないながらも、当たり前のことができない。思ったように動けない、自分の体なのに。何か運命に対する不条理さを抱えて生きているように思えました。
それはまさに十字架を背負ってゴルゴダの丘を歩くイエスのようで、それが直感的にKさんの痛みを解く糸口になるのではと思ったからです。

いつもは患者さんの語りを振り返る中、主に論説文(いわゆるお堅い文章)を参考にして、論を組み立て、肉付けしていくのですが、今回はある小説をテーマにしました。

遠藤周作“死海のほとり”

この小説は、遠藤周作が自身のキリスト像について書いた小説で、二つの物語が交互に展開される形をとっています。

一つ目は、クリスチャンの二人がエルサレムで再会し、イエス・キリストの足跡を辿る物語。二つ目は、十字架で処刑されるイエス・キリストの数ヶ月前からの物語です。これらが交互に折り重なりながら、イエスの事実を探っていく小説です。

出版された当初(今から40年ほど前)は賛否両論あったそうです。

それは、遠藤周作の描いたイエス・キリスト像にあります。

遠藤周作の描く、弱いイエス

遠藤周作が自身の小説の中で描くイエス像は、いわゆる一般的なイエス像とはかなり異なります。

少々長くなりますが、引用します。
足に障害のある患者(アンドレア)がイエスが起こす奇跡の噂を聞きいてから、長い間待ち侘びたイエスと出会うシーンです。

「あんたなら……この足を治せるだろう」アンドレアが言った。イエスは黙っていた。頰がこけ眼のおちくぼんだその顔に、絶望の色がはっきり浮んだのがアンドレアにもよくわかる。アンドレアもこの時、イエスが手をさしのべるのを待っていた。ひょっとすると……その手が足にふれただけで、その萎えた足は伸びるかもしれぬ。
「治してくれ」男はもう一度くりかえした。「あんたは、神が愛だと言った」湖は陽光にひかり、その光のなかでイエスの影だけが、黒く、苦しく、身じろがない。

そしてやがてイエスは弱々しく首をふった。絶望した跛(足に障害がある人)の男は顔をあげイエスを見つめ、それから泣きはじめた。手から杖が滑り落ち、力尽きたようにその体は地面に崩れた。

「長い長い間……」男は嗚咽しながら、「この足を治してくれる人があの丘からおりてくると、聞かされていたのに。

そして……それが、あんただと思っていたのに……」跡切れ跡切れのこの声はアンドレアの胸を刺した。
跛の訴えはアンドレア自身の訴えでもあり、畠に立った哀れな女たちの訴えでもあったのだ。「あんたには……その力がないのか」

イエスは杖をひろい、地面に萎えた足を投げだして倒れている男の体を支えようとした。

彼の著書において、イエスは神の子でも、預言者でも、奇跡の人でもありません。
それは、奇跡など起こせぬ人であり、弱い人に寄り添う人であり、そしてただ何もできない弱い人でした。

以下は、イエスに裏切られた患者の回想シーンです

何もできぬイエスは秋のはじめ、ガリラヤの湖畔から人々に追われて去っていった。
つめたい霧雨のふる日で、しとどにぬれた彼と弟子を五カ月前、あれほど迎え入れた者たちが、罵声をあびせ、石を投げる光景が湖畔の至るところで見られた。アンドレアも彼等にまじって、石をひろい、イエスたちに投げつけた。

彼の投げた石がイエスの肉のおちた頰にあたり、ひとすじの血が彼の顔にながれた。「役たたず」と人々と共に、アンドレアも叫んだ。「何もできぬ男」

翌年の五月、アンドレアは、あの役に立たなかった男が最後の弟子たちにまで見棄てられ、エルサレムで一人、十字架を背負わされて死んでいったという噂を聞いた。

ここで描かれるイエスは弱いだけでなく、家族に捨てられ、教団には見放され、人に裏切られます。さらに、その弱さゆえに怒りを向けられる対象でもあり、最終的にはスケープゴートとして処刑されてしまいます。

「イエスキリストが起こした大いなる奇跡!!」という
どこかの本で読んだような奇跡は、結局、一度も起きませんでした。

弱さの奥にあるもの

虚弱。脆弱。貧弱。衰弱。病弱。

弱いに関連した熟語の多くは、残念なくらい同じような言葉を伴っています。これらの言葉は目を背けられ、時には嫌悪感を示されてしまいます。

死海のほとりで描かれたイエスもそうでした。誰もイエスの弱さには目を向けず、むしろ敵意や嫌悪感を持っていました。

しかし、磔の際にただ一人、
処刑の担当する百人隊長(軍曹的な人)が、イエスの弱さの奥にある何かをじっと見つめる存在でした。

ぼろぼろのイエスが喘ぎながら呟いていた言葉を知っているのは百人隊長だけであり、それをどう理解し受け止めて良いのかわからない。にも関わらず、今胸の底に自分でもどうしようもないものが込み上げてくるのを百人隊長は感じていました。

磔にされ痛みを抱えるイエスの弱さを見つめたのは、たった一人の命の生殺与奪を握っている人だった、というのは皮肉ではありますが

これを現代に置き換えてみると、痛みを抱えるイエスは患者さん。命の生殺与奪を握っている側(もちろん殺と奪はいけません)は医療者になるのかなと思います。

そして、患者さんと日々向き合う医療者は、この百人隊長と同じように痛みを抱える患者さんの弱さの奥をじっと見つめ、何か意味があるのでは?と考えなければいけないのかなと思っています。もちろん、僕も含めてですが。

簡単には答えは出ないでしょうが。
一つの考えとして、傷ついた癒し手という意味もあるのかなと思います。

長くなりそうなので、続きはまた


頂いたお金はMedipathyの運営費に使わせていただきます。