アンミカの白いタオルをぎゅっとね。
──幸福には、二種類ある。
私もそれなりに人生の悪路や沼地を歩いてきて、何度かちょっとケガを負ったりもして、ようやくそれがわかってきた。
私たちは、身に起こる出来事や現象に幸福を感じることが多い。というか、幸せだとか不幸せだとかは、そういう出来事がもたらしてくれるものだと信じこんでいる。
好きな人と結婚した。仕事で成功した。お金持ちになった。うまいもんを食った。イビサに旅行した。ポルシェを買った。夢が叶った。褒められた。認められた。許された。愛された。
たしかにそれらは、大小の喜びをもたらしてくれる。
私だって、過去を振り返ってみれば、結婚して、子どもが生まれて、仕事で認められて、お金を稼いで、ちやほやされて、うまいもんを食って、旅行して、好きなものを買って、その度に、幸福を味わってきたし、それらのいくつかは、今思いだしてもキラキラした素敵な思い出としてこの胸に残っている。
けれどそれらは、──手に入れた途端、すでに失いはじめるもの、である。
それが起きた瞬間、手に入れた途端、もう、移ろいはじめている、消えゆこうとしている、儚いものだ。
中島らもは、
と言っている。
つまり、恋愛とは、初めて唇を重ねた瞬間が最高潮であり、後は日常へと下っていくだけだ、というのである。
出来事や現象に感じるあらゆる喜びや幸福とは、その瞬間の光輝の眩しさに目がくらんでしまうが、実のところ、そういうものだ。
──ポルシェは色褪せ、成功は過去の栄光に成り下がり、お金は使えば減り、愛する人との甘い蜜月は日常へと堕落する。
ハネムーンという言葉があるのは、やがて必ずそれが終わることを意味している。
──諸行無常。すべては移ろい変わりゆく。ずっと同じものは無い。何千年も前に、ブッダもそう言っている。
エックハルト・トールに言わせれば、
つまり、誰かを手に入れたり(と錯覚したり)、何かを手に入れたり、何かを達成したりして得た幸福は、一時的にエゴや自意識を満足させるだけで、永遠にそれらを追い求め続ける螺旋──いつまでも足りない地獄──、から逃れられない、ということだ。
そして逆に、好きな人と結婚できない、仕事がうまくいかない、お金が足りない、海外旅行もできない、褒められない、認められない、許されない、愛されない、自由がない、時間がない、という現象ばかりだと、──不幸な人生、ということになってしまう。
──けれど、人生とは、そんなに辛らつなものなのだろうか。
私たちは、そんなに不確定で、頼りなく、──勝たなければ、手に入れなければ、幸福になれないような──、希望のない、つまらない世界に生きているのだろうか。
たしかに、ブッダは〈一切皆苦〉──人生は思い通りにいかないものだ、と言っているし、なるほど、その字面から感じるままに、あるいは私たちの生きているこの世界というのは、一切が皆、苦しみに満ちているのだろうか。
でも、さ──。
「白って200色あんねん」
アンミカさんがそう言うと、スタジオは爆笑に包まれた。
ベッドに寝そべってテレビを眺めていた私も、吹き出し、思わず半身を起こし、声を出して笑っていた。わははははは。
彼女は、貧しい育ちだったため、モノや人、あらゆる事象のいいところを見つける能力が発達したのだ、という。
「どんなものでも褒められる」という彼女は、「そのタオルも褒められます?」と振られると、一瞬の間もなくそう即答したので、皆が驚きと感動の笑いに吹き飛ばされたのだった。
アンミカさんのこの言葉が私たちに響いたのは、この言葉そのものよりも、その、一瞬の間も置かない瞬発的な反応の速さによるものだろう。
つまり、普段から、彼女の思考形態、あるいは人生の見方そのもののデフォルトが、そのように──あらゆる事象のいいところを見つけることが至極当然であると──設定されている、ということに、驚き、笑い、心が揺れたのだ。
──真の幸福とは、言うまでもなく、今ここに満ち足りていることだ。
お金持ちだからでも、ポルシェに乗っているからでも、好きな人と結婚しているからでも、褒められ、認められ、許され、愛されているからでも、ない。
今ここに満ち足りる、ということは、今持っているもの、今の自分、今の境遇、今この瞬間のいいところを見つけ、その豊かさを感じられるかどうか、ということだ。
アンミカさんは、フワちゃんが遅刻して飛行機に乗り遅れたときにも、──彼女が遅刻したことには意味がある。神さまがそうさせてくれたんや、と本気で言ったという。
さすがのポジティブ思考に思わず笑ったけれど、よく考えたら、彼女はべつに特別なことをしているわけではない。ポジティブって、当たり前なのだ。
なぜなら、この世界のあらゆる出来事、事象、現象には、必ず、良いところと悪いところが半分半分あって、そのどっち側を見るのか、に過ぎないのだから。
この世界は暗く憎しみに満ちている、と信じて、悪いところばかり(無意識に)探していれば、そういうところばかりが目に入ってダークサイドに堕ちるし、この世界は光と希望に満ちている、と信じていれば、アンミカさんみたいにジェダイになれる。
ブッダが言うように、そして私自身も、あるいはあなたも、多くの人が経験しているように、たしかに、──人生とは思い通りにはいかないものだ。
けれど、思い通りにいかないことが、不幸だとは限らない。
人生には、思ってもみなかった喜び、想像だにしていなかった幸福が、たくさん溢れている。
いや、むしろ、私たちの平凡な日常の暮らしという営為の中で、心に風が吹き、いつまでも眩しく記憶に輝き続ける幸福な体験というのは、そういった、──思いもよらなかった出来事や、なんでもないようなささやかな出来事、ではないだろうか。
やっと成し遂げた夢や仕事、ずっと欲しかったモノを手に入れた瞬間、愛する人と肌を重ねた夜──もちろん、それらの現象がもたらす幸福な時間は、めいっぱい味わえばいい。ありがてえことだ。最&高だ。
けれど、人生はそんな現象よりもさらに、ずっと深く、慈愛に満ちて、なんていうか、──いい感じにできている。
ニーチェは、
と喝破した。これはエックハルト・トールが引用したものだが、つまり、
私たちの日常に潜んでいる、ほんのささやかな、小さなもの、ちょっとしたこと、風が心地いいだとか、好きな人が微笑んでいるだとか、そんなことこそが、心に余裕と余白を与え、その余白にこそ、──今ここに生きている幸福、存在の歓びという、真の幸福が流れこむのだ、と。
そして、出来事や現象ではなく、──今、ただ生きている、ということに静寂と喜び、感謝を感じるようになると、私たちはまず安心し、安心した私たちは、現状に適した行動を取り、自ずと、楽しみながら、ときには歯を食いしばりながらも、やるべきこと、現実と調和した行動を選び、結果として、──余計な思考をせずとも、物事は勝手にうまくいくようにできている。
そんな風に、世界はいい感じにできているのだ。──もちろん、そう思えれば、そうだということが腑に落ちれば、の話だが。
私だって、それを知っているからといって、いつも静寂と喜びと感謝の真の幸福にいるわけではない。
内なる私、痛みを引きずった私、愛されたいエゴが騒ぎ、寂しさに打ち震える夜も、不安に歯を食いしばる朝もある。
「白って200色あんねん」
大事なのは、白には200色あるということを知っているかどうかではない。
白いタオル(おしぼり)というささやかな、小さなものに秘められた豊かさを感じる力、感性、姿勢こそが、私たちに、アドレナリンが溢れるような一過性の興奮ではなく、じんわりと沁みいるような、安らぎと幸福をもたらしてくれ、その安らぎこそが、私たちを、他者や世界と繋げ、豊かさや歓びを循環できる、ということだ。
私は、飲食店でおしぼりを見つけるたびに、アンミカさんの言葉を思い出してニヤニヤしてしまう。
そして、タンメンを啜りながら、
──うん、今日も生きてる。タンメンうまい。でも、頭痛い。ちょっとしんどい。思い出すと哀しい。不安もあるなあ。でも、生きてるし、ここにいるし、まだまだ人生は続くみたいだ。
なんて考えながら、そのおしぼりで汗を拭っていると、存在の歓びとでもいうような、──産まれて、生きて、死んでいくんだ──、という、生きている幸福のようなものが感じられて、身体の内側からじんわりと私をあたためていく。
おしぼりが、タンメンが、外に出たときに吹く涼しい風が、犬の吐息が、あなたの微笑みが、私の内側に余白をつくるとき、そこに、静かな幸福が流れこんでくる。
流れこんでこないときは、しょうがない。溜息をついて、あきらめて、自転車をこぎ出す。
でも、また、風が吹いてくる。ちょっと、涼しくなる。心の裡で、白いおしぼりをぎゅっと握りしめて、ペダルを漕いでいくんだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?