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広尾の森に吹いた風──もう二度と自分を嫌いにならないために。

エッセイを書きたい、エッセイを書こう、と思い立ち、noteを再開するにあたって、自分の中でなんとなく決めていたことがある。それは、

──なるべく自分のことを書かないこと。

なーんて思いながらも、オートバイのことを書こう、と筆を執った再開一発目の〈私を引きずりまわせオートバイ!〉では、オートバイを通じて見事に自分のことばかり書いてしまった。

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七里ヶ浜

自分ではない何かのことを書いても、結局自分のことを書くことになる。

村上春樹さんは、──カキフライのことを書いても、つまるところ自分のことを書くことになる、というようなことを仰っている(だから自分のことを作文する必要があるときにはカキフライについて書きなさい、と)。

花村萬月さんも、──小説に自分のことは書くな、どうしたって滲み出るものだから、というようなことを書かれていた。

何を書いても鬱陶しいほどの自分が滲み出てしまうのだから、最初から自分語りをしよう、なんていうスタンスで書かれたものを他人が読めば、そりゃあ、鼻につくか目にしみるか悪寒が走るか、ウザったくてしょうがないってことだ。

なんでそんなことを話しているのかというと、今日は、自分のことをたっぷり語ることになるのだろうなあ、という悪寒、いや、予感があるからだ。

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広尾商店街

過日。父の七回忌へ行ってきた。もう、六年。三十五度近い、よく晴れた暑い日だった。

父の墓は、広尾商店街の突き当たりのお寺さんにある。都会のど真ん中で、すぐ隣の明治通りには人や車の往来がやまぬが、緑豊かな広大な墓地に足を踏み入れると、不思議といつも穏やかな静寂に包まれる。車のエンジン音やクラクション、人々が蠢く喧噪が、遠くの花火のように現実感を失っていく。

私はこの寺の厳かで静謐な本堂に入ると、いつも意識の次元がぐん!と上がるのを感じる。

磨きあげられ、年季の入った黒々とした縁側。大きなガラス戸から覗く、よく手入れされた眩しい日本庭園。読経の低い唸りに木魚と鈴の音、線香の香り。──といった舞台装置が、私を現実から引き離していく。

命の視座に立つ、とでもいうのか、日々の些末な出来事や現象から離れ、人生や世界を広く高く俯瞰するように、幽体離脱でもするかのように、私の意識が空高く飛びたっていく。

寺や神社、お参りや法要とは、そのためにあるんだろう。

法要を終えると、ご住職が、読経のときとは違う、けれど落ちついた静かな声で、──光陰矢のごとし、と言いまして、と少し法話を聞かせてくれた。

たしかに、あれから六年も経ったなんて、思わず笑っちゃうくらい、信じられない。

仕事を辞め、父の代わりに会社をたたみ、引っ越しをし、家族と別れ、病気になり、大きな犬と暮らすようになり、──この六年の間に、あまりにもいろんなことがあって、まさに人生の光も陰も矢のように一瞬で通りすぎていったみたいだった。

法要が終わり、ご住職が本堂から退席されると、私の中に、今まで感じたことのない、安堵のような、希望のような、何かあたたかいものが流れこんできた。

──何かが終わり、何かが始まる。

私はそのとき、言葉としてそう感じていたわけではないけど、今思い返せば、そのような思いを抱いていたのだろう、と思う。

父が死んでから、私は徹底的に自分を殺してきた。

それは無自覚であったが、父のため、父の周りにいた人のため、父が遺したもののために、父の一人息子という役割を果たすために、空の上の父に許されるために、あっちを立て、こっちを立て、私自身は墓石の陰に隠れるようにしながら、やるべきことをこなし、作り笑いをして暮らしていた。

そのようにして、慢性的な自殺をするかのように、自分で自分を徹底的に否定し、痛めつけた私は、その苦しみを、いちばん近くにいて、いちばん大切な人、いちばん愛していたはずの人──妻──に、向けてしまった。私は無自覚にも彼女に痛みをぶつけ、寄りかかり、依存してしまった。

やがて、誰からも必要とされない、誰からも愛されない、許されない存在なのだ、という遠い日の幼い私に心を支配された私は、そう信じたとおり、現実でも、必要とされなくなってしまった。──思考が現実を創る。自然の理である。

だが、ようやく、──そのような陰の日々が、終わったのだ、と、暗く静謐な本堂で、私は直観していた。

くだけた言い方をすれば、

──わりいけど、あとはオレの好きにさせてもらうよ。

という感じか。

六年か──、ずいぶん長いこと、みんなに遠慮してたけど、いい人を演じてたけど、縮こまってたけど、愛されようと、許されようとしてたけど、罪悪感に塞いでいたけど、もういいべ? もう知らんペよ、おっぺけぺ、って。

それは、もうこれからは遠慮なく私の好きなように生きさせてもらうからな、というエゴイスティックな気持ちだけではなくて、むしろ逆に、私はこれまでたくさんの豊かさや幸福をもらってきて、それを人の世にお返ししたい、循環したい、と考えたときに、もうオレの時間もそんなに残ってないやんけ、と思ったのである。

あと二十年も生きれば、私も父が死んだ歳になる。

私はそれ以上生きるつもりでいるが、もちろん何が起こるかわからんし、いずれにせよ、ここから、私が自分の命と人生を輝かせて、私の内なる豊かさや歓びを仕事や暮らしを通じて他者や世界に循環していくには、遅すぎるくらいだなって。

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前菜盛り合わせ

お寺さんを出ると、タクシーで移動して、中華料理店の個室で、家族でお昼を食べた。父に献杯をし、ビールを飲んで、暑さから逃れ、力がぬけた。

そんな話をするつもりはなかったのだが、子どもたちが顔を揃える機会もそんなにないので、会食の終わりに、私は私の胸中を素直に語った。

──また、以前みたいな、明るくて元気でアホなパパに戻るよ。

言いながら、私は堪えきれず涙を流していたが、子どもたちは、とてもいい顔をしていて、頷きながら聞いてくれていた。きっと彼らは、ずっと前から気づいていて、待ってくれていたのだろう。

そして、伝わるかどうかわからないけど、と前置きして、

──何があっても、絶対に、自分のことを嫌いになってはいけないよ。

ということを、彼らに伝えた。親として、というか、人として、大切な彼らに、伝えたかった。

伝わらないかもしれないけど、これを読んでいるあなたにも言いたい。

──どうか、何があっても、絶対に、自分だけは、自分のことを嫌いになってはいけないよ。

それは、人間の冒涜であり、人として一番やってはいけないことなんだよ。

過ちを犯したり、大切な人を傷つけたり、あるいは法を犯すようなことをしてしまうときってのは、痛みを引きずったエゴが悲鳴をあげていて、その根っこで、──必ず、自分のことを嫌いになっちゃってるんだ。

そうであるときは気づかないんだけど、──いちばんの幸福ってのは、自分を好きでいられること、だろう?

そして、逆に、この六年間、私が闇を彷徨ったように、──不幸とは、自分を嫌いになること、自分でいたくないという思いを抱きながら生きること、なんだ。最悪だぜ。そりゃ、生きるのがイヤにもなるさ。

だから、

──私も、もう一度、かつての、いつも笑ってるアホなおっさんに戻るから、みんなも、どんな自分もお茶目に許せるアホになって、笑顔で生きて欲しいぜって、思ってる。

真夏の広尾の森は、ムッとした熱気に包まれていた。私も皆も、汗をかき、シャツに染みをつくり、頬を赤らめ、今にも溶けだしそうな顔をしていた。

でも、私の心には風が吹いていた。その暑さすら、なんだか清々しくて、涼やかな気持ちだった。

私はきっと、あの暗い本堂で味わった静寂と、鬱陶しいほどの猛暑の中で感じたこの涼やかな気持ちを、ずっと忘れないだろう。私はこれから、また、歩き出すのだ、と思った。

ネットで読む文章で一番鬱陶しいのは、知らない誰かの自分語りと決意表明だ。その両方を満たしちゃって、まったくイヤになるけど、アホに戻ったんだからしょうがあんめえ。

できることなら、これを最後に、私のことはもういいから、私がこの六年の間に見失っていた、いつもこの世界に充ち満ちている、豊かさや歓び、愛ややさしさ、きらめきや眩しさを、どうにかこうにか、届けられたら、と願っている。

みんな、ありがとう。これからもよろしくどうぞ。

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