余白を持つこと/保留する勇気

本を読むのが好きだ。様々な人、様々な作品に触れるのも好きだ。
そんな中で気付いたことがある。
人間関係において大切なこと。コミュニケーションする時の心構え。
それが表題にある「余白を持つこと」と「保留する勇気」だ。

今年の2月に観たとある演劇が、そのことに気付かせてくれた。

とある演劇を観たときの話

吃音症の友人と私

今年、2020年の2月に友人が出演するという舞台に興味を持ち、京都に足を運んだ。
その友人は私と同じ吃音という障害を持っている。吃音者は、流暢に発話するのことに困難さを抱えている。「ぼぼぼぼくは」と初めの音を繰り返したり、「ぼーーくは」と初めの音を伸ばしたり、あるいは「……ぼ、ぼくは」というように声を出すのに時間がかかったり…。その症状は人によって千差万別で、舞台に上がるという吃音の友人は初めの音を繰り返しつつ、さらに声を出すのに結構な時間がかかる。
こう聞くと、「吃音者に演劇は無理なんじゃ…」と思う方もいるだろう。そういう人が大半だと思うし、実際にリズム感や明瞭に言葉を観客に伝えなければならない演劇において、吃音症状は確かに致命的ではあると思う。自身も大学時代に演劇サークルに所属していたが、「吃音だから…」と言って、舞台に上がることからは避けていた。だからこそ、吃音である友人が参加するこの舞台を楽しみにしていたし、心のどこかで、「どうなるのだろう」という不安もあった。いろいろな感情が渦巻く中、私は会場内で開演を待った。

斬新かつ不可解な演劇

それは最後まで目が離せない演劇だった。
面白くて目が離せないというよりも、劇の内容、表現方法があまりに不思議だから目が離せないという感じだった。
この演劇で何を伝えたいのだろう。
この表現は何を意味しているのだろう。
この時の”目が離せない”は、何とかこの演劇を理解し意味を見出そうとするための、切迫した”目が離せない”ものだった。

舞台には、ピアノが一台、そのピアノの近くにナレーション役のような人が一人、真ん中には一人の男性。その男性の後ろに10名くらいの役者が横一列にずらっと並んでいた。
その位置関係は最後までほとんど変わることはなく、僅かな身振り手振りはあったものの「動きのほとんどない」劇だった。
しかも、真ん中に立っていた男性は劇の間中ひたすら筋トレをしながら台詞を喋るという…。演劇の常識を覆した、斬新な表現だった。後ろで横並びになっていた10名ほどの役者は、時々主役の男性と台詞をかぶせ、また時に横並びになっているうちの数名と台詞が被ることがあった。しかも、多言語。何ヵ国かの外国語と日本語と、そして手話。色んな言語が重なって、必死に聞き取ろうと耳を傾けていたが、何を言っているのかさっぱり分からなかった(純粋に外国語も分からない)。
そして、吃音の友人は見事にどもり、劇のリズムを崩していた。しかし演者は何事もなかったように演技を続ける。そのリズムの崩壊も今までの見た演劇にはなかった斬新さがあった。個人的には友人に吃音症があることを知っていたため、こうやってリズムを崩しながらでも演じている姿に面白さやある種の美しさも同時に感じていた。
終盤は筋トレの疲れで顔を真っ赤にし、明らかに疲れた様子を見せている男性に心配すらした。でも、その疲れやしんどさが、見事に台詞にのっていて感情がこもっているように感じ、心が震えた瞬間もあった。結局、最後まで何を表現したいのかよく分からないままだったのだが…。
約1時間ほどだったか…そんな、ちょっと(?)風変わりな演劇を私は見せつけられた。

質疑応答タイムで、ある違和感を覚える

これまた特殊で、演劇後すぐに、劇団の方数名に対して質問できる時間が設けられていた。
数名の観客が手をあげ、よかった点を述べていた。そして、やはりといったところか、この演劇で何を表現したかったのか、何を伝えたかったのかを質問する人もいた。
その質問に対して、演出家は「筋トレを取り入れたのは、しんどさを表現するためです」と言っていたような気がする。でも、それだけの答えでは観客は納得できなかったようで、何とかこの演劇に”意味”を持たせようと、そして演出家から何かを引き出そうと微妙に表現を変え角度を変えながら質問をしていたような気がする。繰り返される、同じような質問に対して、演出家は困っていたことを覚えている。「私たちにもはっきりは分からない…」多分、そのようなことを言っていた。それでも、観客は時間が許す限りこの演劇の”意味”を見つけようと躍起になっていた。。。少なくとも私にはそういう風に見えた。
その質疑応答の様子を見て、私は違和感を覚えていた。それは多分、その質疑応答では”対話”がなされていなかったからだと思う。質疑応答はずっとすれ違っていた。演出家が「分からない」と言っているにもかかわらず、それでも何とか意味を見出そうと質問する観客…。「分からない」なんて言うのは許せない…私は観客の質問からそのような圧力を感じた。
ちなみにこの演劇を見るのに、僅かだが観客はお金を支払っている。「分からない」と言うのが許せないのは、これも大きく影響しているように感じる。また、今の日本は様々なことに価値や意味を持たせようとする、そんな風潮がある。これは資本主義の影響を受けているのかもしれない。また、分からないままで終わらせることにただただ”恐怖”を感じていたのかもしれない。

でも、分からないことがあってもいいはずだ。この世には”分からないもの”や”無意味なもの”また、そもそも”分からないことに気付きもしないもの”そういうものも結構多い。でも、半ば強迫的な思いに駆られて何らかの価値や意味を見出そうとしてしまう。
その時、私は思った。”分からない”ものを分からないままにしておくことも大事だ、と。分からないと言っている人に対して、無理やり価値や意味に結びつけようとすることは暴力的なことなのだと。

余白をもつこと/保留すること

保留する勇気

分からないものに対して、無理やり価値と結びつけようとすること、分からないからと言ってその対象にネガティブな評価を下してしまうこと。これはとても暴力的でもったいないことだな、と思った。
”分からないもの”を”分からないもの”として、何の価値判断も下さずに「保留する」ことの大切さを、私はこの時に実感を持って学んだ。保留することは、人を無暗に傷つけることを防いでくれる。そして、今までの自身の人間関係経験を振り返って、「保留する」ことにもう一つのメリットがあることに気付いた。私は、20代前半くらいまで自分の意思が強く、頑固で、自分は正しい判断ができると思い込んでいる節があった。それゆえ、自分の価値観から外れる人に対しては、見下したり、避けたり…そんな暴力的な態度をとっていた。その態度の裏には「分からないもの」に対する恐怖感があったのだと思う。かといってこの自身の暴力性は許されるものではない。ただ、恐怖感を持ってしまうというのも事実として理解しておく必要はあると思う。
閑話休題。
保留する、もう一つのメリット…それは、自分の世界を広げることにつながる、と言う点である。冒頭でも述べたが、私は本を読むのが好きだ。また、様々な芸術作品や人と触れ合うのも好きだ。そうやって様々なものに触れあっていると、時にどうしても”理解できないもの”に出会うことがある。でも、自分の場合、本が好きだからという理由で、分からないなりに最後まで読むことが多かった。その分からないことも、数か月後、数年後にふっと思い出し、「ああ、あれはそういうことだったのか」と”分かる”ときがくる、今までそんな経験を何度かしていた。好きなアニメーション制作会社だからという理由で、分からないなりにも最後まで見たアニメもある。そのアニメも”分からない”けれども私の心にずっと残り続け、数か月後に不意に”分かる”時がきた。その時の”分かる”というものは本当の理解ではないかもしれないけれど、でも、自分なりに分からなかったものが分かったのは事実で、それは自分の世界・価値観を広げたような感覚を私にもたらした。それはとても心地の良いものだった。なぜ心地いいのか、それは”悪”と”恐怖”の対象がなくなったからだと思う。ネガティブな評価を下さなくていいというのは、とてつもなく大きな安心感につながった。
私たちは、得体もしれない恐怖感から、分からないものを遠ざけたり、ネガティブな評価を下したりしがちだ。でも、一度踏みとどまって、保留する勇気を持つ必要があるのだと思う。

余白を持つこと

保留する勇気を持つために大切なこと…それは「余白を持つこと」だと私は考えている。正確には、「自分に余白があることに気付く」という方が正しいかもしれない。
私の価値基準で”私”を覆いつくしている人をよく見かける。自分の価値基準と異なる人を排除してしまうような人だ。自分もかつてはそういう人間だった。残念ながらそれは今もなお完全には消えていない、と思う。
でも、きっと私という人間は、そんなちっぽけなものではない。揺れ動き、浮き沈みしながらも少しずつ成長していく生き物だと思う。今の私の価値基準が100%だと思い込んでいる人は、まずその考えを一旦脇に置いてみてほしい。私には、私の知らない私がいる。分からない本やアニメを保留したことによって新たな気付きを得た私のように…。きっと、私の中にはまだ知らない私がたくさん存在する。そんな「まだ知らない私=空白」の存在を消さないでほしい。無かったことにしないでほしい。そうすれば、もっと世界が広がり、楽に生きれるようになるのではないかと思う。分からないものを分からないまま置いておくのは、とても怖い。その感覚は自分も経験しているのでよく分かる。でも、分からないものを”悪”として追い出してしまうのも心のどこかで罪悪感が残る。そんなことない、と言う人もいるかもしれないが…。

この文章を読んで、少しでも「私の知らない私」の存在や、自分の価値観を振りかざすことで他者を傷つけてしまっているかもしれないという事に気付いていただけたら嬉しい。また、空白を持ち保留することには怖さだけでなく、心地よさもあるという事も知ってもらえたら嬉しい。どうしても保留する勇気が持てない人は、”好きなところ”を見つける努力を少しづつ積み上げていくといいかもしれない。私も、大好きな本や作品、人に対して保留する勇気を持てたからだ。

長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!

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