自分の居場所と他者とのつながり~映画『岬のマヨイガ』~

※ネタバレありますのでご注意ください。




なんか東北を舞台にした、妖怪が出てくる話。

映画『岬のマヨイガ』の鑑賞前のイメージは、その程度でした。

まさか東日本大震災(劇中でそうはっきり言っているわけではありませんが)がストーリーに深く関わってくるとは思わなかったので、少しびっくりしたのは事実です。

もう10年前の話であり、正直「いまさら?」と感じてしまいました。

でも被災した方々にとっては「いまさら」で片付けられるような話ではないでしょうし、この「いまさら」と感じてしまう心が災害の記憶を風化させてしまうことにもなるんですよね。

正直、映画を見ている最中なのにその点について反省。


そんなことを考えていたため、イマイチ最初は映画の内容に没入できなかったのですが、作品全体に流れるゆったりした空気感と時間の流れのおかげで、特に話の流れがわからなくなるようなことがなかったのはありがたかったですね。

「避難所でたまたま出会った老婆と女子高生と小学生が一緒に暮らすようになる」という展開には多少無理を感じましたが、まあそれはキワ婆ちゃんの不思議な力でなんでもあり、ということで。

住民票とかの問題も、お地蔵様の力でなんとかしてくれたようですしね。

お地蔵さまは子どもの守り神、そして道祖神、土地神としての役割もありますから、役所の住民に関する登記も操れるのでしょうか。

まさかお地蔵さまをそんなふうに使うとは想像もしなかったので、少し面白い部分でしたね。


その後はキワ婆ちゃんと女子高生のユイ、小学生のひよりが家族となっていく姿が描かれているわけです。

3人が住むことになるのが岬にある「マヨイガ」のひとつなわけで、そこでの生活を通して少しずつ絆を深めていくのですが、そこでユイ、そしてひよりが抱える「心の傷」が明らかになっていきます。

ユイは自分のことをひとりの人間として見てくれない父親のために家庭に居場所を失い、ひよりは実の両親を事故で失い、さらに引き取られた親戚一家も震災で失っています。

そしてこの2人が自分の心の傷を打ち明ける際のキーワードとなっているのが「どうして私が」という言葉。


この言葉は、私たちもなにかトラブルなどがあったときについ思い浮かべてしまうことが多いですが、「どうして私がこんな目に」「どうして私だけが」と考えてしまうのは、世界からの孤立感を深めてしまい、精神的により孤独となってしまいます。

そんな孤独感を埋めてくれるのは、やはり「他人とのつながり」であり「自分の居場所」であるわけですね。

ユイとひよりは、キワ婆ちゃんとの疑似的な家族という居場所が作られていたために「どうして自分だけが」という心の傷を克服できたのです。


またこのとき「自分だけが辛い思いをしたわけではない。他の人も辛い思いをしているのだから、我慢しよう」という考え方になっていないのも大切なことです。

ユイもひよりも「自分も辛い思いをした、他人も辛い思いをしている。だからお互いに支え合って生きていこう」という考え方になり、キワ婆ちゃんも含めた3人で家族として一緒に暮らしたい、との思いで心の傷を埋めたわけです。

これは非常に前向きな考え方であり、この映画のなかでも重要なポイントとなっているのではないかと感じました。


そう考えると、河童や天狗などの「ふしぎっと」の存在や、人間の寂しさ、悲しさを養分として自分の住む土地から他者を追い出そうとする妖怪「アガメ」は、おまけ程度のようなものだったのかもしれません。

もちろん彼らが存在することで物語が成り立っている部分は大きいのも確かですが。

ただ物語は「妖怪や神様がいっぱい出てきてワイワイ」ではなく「3人が家族となって支え合って生きていく」のが、やっぱりメインとなるのではないか、と。

実際、活躍したのは河童たちと狛犬、お地蔵さんたちくらいで、他の妖怪たちは顔見せ程度の出演でしたしね。

アガメとの闘いも、なんだかあっさり終わったように感じたのは、妖怪とのつながりや争いを描くのは決してこの映画のなかでメインとなる部分ではなかったからでしょう。


妖怪がたくさん出てきて活躍するのを期待していた、私のような妖怪大好き人間にとっては少し残念な部分ではありましたが、まあ仕方がないかな、と。

芦田愛菜や大竹しのぶなど、声優としての演技も自然で良い感じでした。


あと見どころとして、出てくる料理が美味しそうな部分があります。

「ヨモギの天麩羅」「ノビルの油炒め」、「焼きおにぎり」が特に美味しそうに感じましたね。

いや、ただ単に私がこういう料理が好きだから、かもしれませんけど。

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