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退屈とは諸刃な資源

今日、久しぶりに外に出た。

いや、毎日外には出ているけど、職場以外で人集まるところに行ったのは久しぶり。

理由は「税務署に用事があったから」
これが不要不急な用事になるかわからないけど、外に出る言い訳的なところはあった。正直、外をみたい気もする。

実際外をみてみると、営業を再開しているお店も増えてきたみたい。

試しにカフェに入ってみると、結構混んでる。
ノートパソコンを広げてる人や、教科書を広げている人、ここだけみると以前の風景とかわらない。「みんな外にでたかったのかなぁ」など思ったりする。

しかし外に出るといろいろと誘惑がある。

コーヒーも飲みたいし、甘いものも食べたい。

そんなことを考えていると、退屈を忘れてしまう。

でもそれはいいことだろうか?

僕は最近、「退屈とは諸刃な資源」だと考えてるようになってきた。

退屈だから何かする。そこに何か生まれる余地がある。

孤独の状態で自分と向き合い、ひたすら思考の整理をしていた連休中、それはそれで生産的だったと思う。実際新しいアイディアも生まれた。
しかし、誰の反応も得られない孤独と、誰かの反応を手に入れなくては、と言う焦燥感もあった(なぜここまで反応にこだわるのかは、また考察していくことにしよう)
この焦燥感はなかなか精神的に辛かったけど、こう言う時に間違った行動をしてしまうのかとも感じた。退屈が人を狂わす感じだ。

しかしそうはならなかったのは、僕は退屈に対する刺激として、
「人の反応」を欲していたことと
「向社会的な反応」を欲していたこと
が効いたものと思う。
「向社会的な反応」は、「その方が正しいだろ!」と言うより、「人の反応を集めやすかった」が正直な心情だったと思う。

逆に、退屈を感じなかったら間違った行動はしないのだろうか?
それともより強い刺激を求めるだけだろうか?
それも深めたいがそれよりも、
普段の生活はあまりにも退屈を奪われていると感じたことが、今日の大きな気づきだった。

退屈を消費して自分が思う生産行動をするか、
退屈を奪われて用意された刺激を与えられるだけか

まさに退屈は資源だと思う。それも正しくコントロールしないと暴走してしまうほどの。

今自分がしている行動は、自らコントロールしての消費なのか、それとも奪われているだけなのか。

退屈と言う何もない時間に何をするか、自分で決められることが重要だと思う。

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