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社会の中でのアイデンティティ〜文化的自己観と社会〜

マーカス、北山(1991)らは、西洋人の自己の捉え方を相互独立的自己観、東洋人の自己の捉え方を相互協調的自己観として論じた。

自己と他者を完全に区別して捉える相互独立的自己観に対して、
自己と他者を重ね、その関係の中に自己を捉えるのが相互協調的自己観とされている。
前者が西洋的、後者が東洋的なのは、感覚から理解できるのではないだろうか。
個人的には、前者が個人主義的とも感じた。
東洋、特に日本では、個人主義よりも集団主義的な考えが重んじられてきた。

しかしそれもずいぶん風変わりしてきたように感じる。

通信技術の発達によって個人の意見を主張できるようになった昨今、集団の結びつきを超えて個人と個人が繋がれるようになった。
加えて多様性や個性の尊重は、強い個人を作る土壌のようにも思う。
集団を飛び越えて個人が活躍できる社会に変わってきた。
そしてそれを受け入れる文化になってきているように感じる。

もし文化が変わってきたのなら、自己の捉え方も変わってしまうのか?

日本の社会は集団に合わせる文化で形作られているので、相互独立的自己観が優位の者には関係を作りづらいかもしれない。そのような状況の中、自分のアイデンティティはどのように形成したらいいのだろうか?

他者との関係にアイデンティティを見出せないなら、「自分は◯◯が好き」と言った独立した内面性で自分を認識するしかない。
もしかしたらそこから、相互独立的な自己観が形成されていくのかもしれない。

昔は地域や家族がコミュニティとなり、「◯◯の家の子」「◯◯の子」「◯◯小学校の◯組」など、関係性から自己を認識していた。それがアイデンティティ形成の土壌となっていったように感じる。

しかし個人化が進んだ現代は、「◯◯が好き」など趣味嗜好性も自己アイデンティティとなる。これは特に地域や社会に帰属意識がなくても獲得できる自己観ではないだろうか。
相互独立的自己観も育まれやすくなってきたように感じる。

現代日本は、相互協調的自己観によって形作られた文化が、相互独立的自己観による価値観で分断されてしまったのではないか?
それによってアイデンティティ脅威が、世代問わず起きてしまっているのかもしれない。

例えば「自分は〇〇が好きである」と、自分の個性を提示するのは相互独立的自己観な行動。
しかし、「自分は〇〇が好きである」と言うことで、「◯◯が好きな」な社会に属したいと言う欲求があるのであれば、それは相互協調的自己観な行動だろう。

昔は地域や学校など、帰属できる社会があったが、
地域が分断され、学校も個人主義的になった昨今、ただ同じ場所に住んでいるだけでは、帰属感を得ることが難しくなってきている。
逆に「◯◯勢」など、趣味嗜好が共通さえすれば、地域問わずインターネットで帰属感を得ることすらできてしまう。

地域によって形作られる社会が、
内面性によって形作られる社会へと変わっていったようにも見える。

東洋人は相互協調的自己観が優位であると言われている。
しかし社会が個人性によって形作られる時、
特に発達段階においてはどのように関係を作ればいいのだろうか。

言い換えれば、どのように自己観を作ればいいのだろうか。

社会との結びつきが、昔と比べて変わってしまったように感じる。

次に社会について考えてみることにしよう。


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