相手の反応と知的生産性

最近は直接の会話が減り、
ひとりこもって資料作りなど、知的生産活動が多くなっていた。
自然と考えることが多くなるが、理論を組み立てていると煮詰まることが多くなる。
しかし直接の会話の方が煮詰まることが少ない。
相手の反応と知的生産性には関係がある気がしてきた。せっかくなので考えてみよう。

ここでは文章と議論を知的生産活動として、
比較することによって生産性を考えてみたい。

その前に会話という状況を考えてみよう。
会話には相手の相槌という反応がある。
相手がうなづき、表情や動作の反応が見える。
それによって自分の話し方も変わった経験はないだろうか。
話し方どころか、話す内容すら変わることもある。

では相手の反応が見ない状態で、ひとりただ喋る状況を考えるとどうだろう?

個人的には苦労した。
相手の反応が見えないことで、どこまでが理解されていて、どこに違和感を感じているのか?
これがわからないだけで自分の思考の整理もできなかった。

そして相手の反応が見えずに苦労する状況が、会話だけではないことに気がついた。このような文章の場合だ。

相手の反応がない状態で、結論まで書き上げる。
どこまで理解していて、どこに違和感を感じているのか、
相手の反応なしに、最後まで思考を整理する必要がある。

これは結論までうまく組み立てられていないこともあるが、
相手の反応で自分の理論の修正点が見えることもあるように思う。
つまり相手の反応で理論を組みなおしているのかもしれない。

議論や会話の場合ではどうだろう。
相手の反応を見れるので、理論の修正点はわかりやすいかもしれない。
相手からの意見もあるかもしれない。
この場合、文章に比べて結論までの時間は早くなるだろう。

議論が進むことにより知的生産も進むのであれば、生産性が高いといえる。
もし文章の結論が、議論の結論よりも遅いのだとしたら、生産性は議論より低いといえる。

しかし、これは時間の問題であって質までは測れていない。
さらに、議論と文章では、相手の反応によって結論を修正するか、自分で結論付けるかの差もある。

もし生産性を時間や量で測るのであれば、相手の反応は知的生産に影響するかもしれない。


と、相手の反応が知的生産性について与える影響を考えてみたが、
相手の反応欲しさに知的生産活動をすることもあるかもしれない。


「相手の反応」と括ってしまったが、心理的には重要な要素に思える。
次回は「相手の反応」について掘り下げてみよう。

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