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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 14

田河水泡=滑稽の人

 これまで見てきたように、田河水泡は実に落語的な人物であった。では、田河作品のどのようなところに落語の影響があるのか。それを見ていきたい。キーワードは「滑稽」である。
 雑誌「新女苑」(実業之日本社)昭和27年1月号での長谷川町子との対談から引用したい。

長谷川 でも、私なんかもそうでしたけれども、ただ単に漫画が描けるともう漫画家になれるように考えるのですね。
 私、絵がある程度描けるからと先生のお宅に弟子入りをお願いしたでしょう? やはり二、三年たって非常に疑問が起きましてね。なかなか滑稽のほうが、つまり案のほうが言うことを聞かないのですね。それで途中でよそうかと思ったことがずいぶんあるのです。
田河 よさなくてよかった。
長谷川 絵のほうは自分の才能なりが進歩していくけれども、案のほうがそれについていかないのですね。私のところなんかにも今漫画家になりたいという婦人の方がお手紙ばかりでなくて直接いらっしゃったりするのですけれども、私、こわくてお勧めできないのですよ。皆さん、ただ絵がお上手だと漫画家になれるとお考えになる。
田河 滑稽作者であるということが根本で、それがたまたま画才をいっしょに持っている。画才がなくて文才ならば、案も作れる。技術に長けていればまた技術のほうで出られる。だからたまたま画才があったときだけ漫画家になれる。(略)

『長谷川町子想い出記念館』長谷川町子(朝日文庫)

 注目したいのは、「滑稽作者であるということが根本」という言葉だ。ここからも、田河がいかに「滑稽」を重視していたかが理解できるだろう。まず「滑稽ありき」なのだ。

 また、1984(昭和59)年に刊行された『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)での座談会の内容からも引用したい。本書では、巻頭企画として、おのざわ・さんいち、加藤芳郎、サトウ・サンペイ、杉浦幸雄、滝田ゆうによる座談会が、永田竹丸の司会で行われた。田河と同時代のマンガ家や、田河に憧れてマンガ家になった者たちが、「のらくろ」についての思い出や、田河の人柄について語っている。

加藤 ところでね、いまは滑稽なんて言葉はあまり使わなくなっちゃったけど、ま、いまは、ギャグだとかさ、それから……。
杉浦 ギャグだとか、ナンセンスとか。
加藤 滑稽となると、いまやもう田河水泡さんだな。代表はな。
杉浦 そう、ね……。しかし滑稽こそ大事なんだよ。
加藤 そりゃ、滑稽が大事ですよね。
杉浦 漫画本も、永遠に滑稽が大事なんですよ。漫画が漫画であるゆえんは滑稽であるということですかね。
加藤 ギャグとか、ナンセンスとかで、ごまかさないでね。滑稽を追求しなきゃいかんですな。
サトウ 滑稽節を作らなきゃいかん。(一同、大爆笑)
杉浦 ま、そういったように、いろいろな漫画芸術もあり、異論もあってさ、そうでないっていう意見もあるかもしれないけれども、でも根本的には滑稽だよね。

『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)

 上記の対談からは、田河が口癖のように「滑稽」を語っていたことがうかがえる。そして、田河に近しい人々も「田河=滑稽の人」と認識していたことがわかるだろう。

田河による「滑稽」分析

 田河の長年に渡る滑稽についての考察および研究は、1987(昭和62)年に発表した『滑稽の研究』にまとめられている。この最晩年の著作は、田河が亡くなる2年前、米寿の記念に出版された。前半部分では、洋の東西を問わず、「滑稽」について言及されている古今の論説を引き、滑稽の種類を分類し、後半部分では各種芸能の歴史をまとめている。いわば「滑稽についての見取り図」のような一冊だ。
 田河はアリストテレスの『詩学』にある一節を「滑稽とは有害ならざる醜である」と要約し、デソアールの六分割(美、優美、滑稽、醜、悲壮美、崇高美)から、滑稽は美の反対(醜)に近く、醜から離れて優美に近づくとユーモアが生まれると位置づけている。「人が迷惑するようなふざけ方または卑猥な言動は、醜いことで不快感を与えるから醜そのものですが、その程度が軽くなって、洒落や冗談おどけとなると、醜の感情が薄らいで、そこに滑稽の感情が生じる」としているが、しかしその感じ方については「受ける側の感情によって変わる」と記している。つまり田河は、滑稽を分析こそしているものの、明確な定義付けは行っていない。

セリフがストーリーを牽引する

 では田河は、具体的に滑稽(=案)をどのように生み出していたのか。実践例としては、前述の長谷川町子との対談から引用したい。

長谷川 先生がお描きになるものは非常に吹き出し(※傍点あり)の会話が多いですね。
田河 あれは落語文章を作っていたためだな。おかげで僕は長い連載漫画が描けることと、ページが長くて物語が延びてもどうにか引っ張っていくという能力があるんだ。
 町子さんのは……。
長谷川 私のは、吹き出しなんかでも、考えていくつも描いてみるのです。迷って……なかなか難しいものですね。吹き出しの描きようで面白さがずいぶん増したり、減ったりいたしますから……。

『長谷川町子想い出記念館』長谷川町子(朝日文庫)

 今日の感覚で「吹き出し」といえば、セリフを囲うカコミ線そのものを意味する場合が多い。基本形は円形で、引き出し罫で話者を特定させ、語調を強める演出としてカコミ線をギザギザにすることもある。ただし、上記対談中で長谷川町子が言っている「吹き出しの描きよう」とは、フキダシの描き方(カコミ線)そのもののことではなく、「セリフの内容(=テキスト)」と解釈するのが妥当だろう。
 つまり、田河は「自分のマンガでセリフの掛け合いが多いのは、書き落語を作っていたから」と明言しているわけである。また、会話がストーリーを牽引している、とも。
 その真意をつまびらかにするには、「落語的な会話」とはどのようなものかを解き明かす必要があるが、その前にマンガにおけるフキダシの機能について、もう少し理解を深めておくのがよさそうだ。

フキダシの歴史

 マンガにおけるフキダシとコマ割りは、いわば小説にとっての文体のようなものだ。その文体(フキダシとコマ割りのルール)は、現在でこそ整備されているものの、田河がマンガを描き始めた昭和初期には、まだ確立していなかった。

 少し時代を遡ってマンガの歴史を紐解くと、「漫画」という言葉を生み出したのは北沢楽天(1876~1955)である。楽天は福沢諭吉の創刊した新聞「時事新報」で1899(明治32)年からマンガを描きはじめ、その頃にはまだフキダシは使用していない。楽天は「連続マンガ」と呼ばれる複数コマによって成り立つマンガを描き、その際、登場人物のセリフはコマ内に、ト書きのように書いている。
 1902(明治35)年の『田吾作と杢兵衛の東京見物』に見られるセリフを例として引用する。

杢兵衛「田吾さん待ちなよ、おらァ咽喉が乾いておいねえから水呑むからよ」

『田吾作と杢兵衛の東京見物』

 上記のように、劇の台本のように「話者の名前(杢兵衛)」+「セリフ」のセットがコマ内に書き込まれている。ただし、このケースでは、コマ内に描かれたキャラクター2人のうち、どちらが話者(杢兵衛)なのか、ぱっと見では判別しにくいという難点がある。

 日本のマンガではじめてフキダシを用いたのは『正チャンの冒険』(原作:織田小星、作画:東風人)とされている。『正チャンの冒険』は1923(大正12)年に「アサヒグラフ」(朝日新聞社)で連載した4コママンガである。
 それ以前の1コママンガ(政治マンガや岡本一平の「漫画漫文」スタイル)は、コマの枠線内に描かれたイラストと、コマの枠線外に書かれたテキスト(解説/ナレーション)によって成立していた。
 それに対して『正チャンの冒険』は、コマ内にもテキストを書き、それをフキダシで囲んだのである。従来どおりコマ外にもテキストは存在し、コマ外はナレーション(ト書き)、コマ内のフキダシは登場人物のセリフ(もしくは擬音)と使い分けられていた。いわば楽天の「連続マンガ」と新聞マンガのハイブリッドであり、フキダシとト書きを併用していたのである。
 少し遅れて「報知新聞」(報知新聞社)で連載を開始した『ノンキナトウサン』(麻生豊)は、作中のテキストはコマ内のフキダシのみで、ト書きは存在しない。
 田河がマンガを描き始めた1928(昭和3)年時点では、フキダシが普及するようになってから、まだ4年しか経っていなかった。ルールが整備されていないどころか、まだ新しい技法だったのである。

フキダシに対する田河の自分ルール

 田河の初連載作品『目玉のチビちゃん』は、テキストはコマ内のフキダシだけで、ナレーションやト書きは使われていない。基本的に田河作品には、コマ外のト書きは存在しない。フキダシ内は、一部擬音(ドカーン)もあるが、基本的には発語(セリフ)に限定される。そして、会話の掛け合いのみでテキストが構成されている。
 これが『人造人間』になると、フキダシはまったく姿を消してしまう。ただし、テキストはコマ内に書かれている。フキダシで囲わなくなっているのだ。剥き出しの状態のセリフをキャラクター付近に配置し、イラストとテキストの距離感と構図により、話者を特定させようとしている。
 現在のマンガ文法においては、フキダシで囲っていないテキスト(手描き文字は除く)は「ナレーション」もしくは「登場人物の内省(心のなかで思ったこと)」を意味し、音声をともなった発話ではないケースがほとんどなので、現在のマンガ読者は戸惑いを感じるだろう。『人造人間』は登場人物が少なく、博士とガムのやり取りだけで会話が進むので、この作品に関してはさほど不便は感じないが、より多くのキャラクターを登場させるには不向きな手法だ。1930(昭和5)年の「少女倶楽部」1月~6月号に連載した『プポ子さん』も、『人造人間』と同様である。
 だが、1930(昭和5)年「キング」7月号から始まる『愉快な連中』になると、ほぼすべてのセリフがフキダシ内に収まっている。一部、フキダシで囲っていないものもあり、例えばお爺さんが子供に小言をいう「ショツチウ休んでゐる様な子は偉くなれんぞ」というセリフが剥き出しで配置されているように、カコミの有無に内容的な区別はない。
 ただ、ほぼすべてのセリフがフキダシで囲われるようになった結果、『愉快な連中』では、1コマに8人もの登場人物を同時に出すことができ、それぞれ別個のフキダシで同時にセリフを語らせるシーンもある。フキダシのおかげで、より複雑な会話が成立するようになっているのだ。

 また、『愉快な連中』には、大声や叫ぶ声を意味するギザギザのフキダシも登場している。さらに井戸にスイカを落とした際に「ドブぅン」という擬音(オノマトペ)を手描き文字で表している箇所もあるので、この時期の田河がテキストを提示する方法を試行錯誤していたことが推量できる。この『愉快な連中』は1933(昭和8)年12月号まで続くので、連載時期は『のらくろ』シリーズと重複している。
 同時期の『のらくろ二等卒』では、フキダシのあるセリフと、ないセリフが混在していた。やはり『愉快な連中』と同様である。しかし、『のらくろ一等卒』の頃になると、すべてのセリフがフキダシ内に収められるようになる。田河は『のらくろ』シリーズの連載を通じて、フキダシのルールを整理していったのだ。

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