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出会い。

人との出会いは必然なのだろうか、
それとも偶然であるのか。
必然であるべきなのか、偶然であるべきなのか。

「べき」というように、
表面的には気が付かないが、
実は自分の奥底では、もっと主体的に、
ある意図に沿った形で会うか会わないかを
判断しているようなものなのか。

知り合った瞬間は偶然だけど、
そのあとにお互いについて知るうちに、
「これは必然的な出会いに違いない」
という思い込みに至るか至らないかの違いで
もしかすると、偶然か必然かという問いに決着が
つけられるものなのかもしれない。


でも、自分には
「20年間あなたを待っていました」
と言われるような出会いをしたことがある。
当時、これはどっちなんだろうと思った。

その時は、自分のほうは
何年も誰かを探しているわけでもなかったし、
会いたい人の明確な理想像なども
持っていなかった。

そこで思ったのが、
自分も「何年でも探し続けられるくらい
会いたいと思える人物像」があって、
そういう人を探していたならば、その出会いは
必然だと思えたんだろう。
実際はそうではなかった。だから自分は
この出会いを偶然だと捉えられた。

相手のほうはどうだったのだろう。
最初に書いたように、必然だと思えるまでに
至っていたのかもしれない。
それまで会ったこともないのに、
「待っていた」と言っていることからすれば、
いずれ出会うことの可能性も
視野に入れていたとも思えるから。

でももしかすると、
諦めていた頃のことだったのかもしれない。

そう考えると、逆に自分にとってもこの出会いが
起こるべくして起こり得た出来事だったの
ではないかと、一気に感じられてくる。

なぜかというと、
たとえ相手が理想の出会いを諦めていたとしても
幻影が完全に頭から消えない限り、
それがずっと心の奥に保存された状態で
残り続けることだろうから、
人生の膨大にある時間を考えれば
『思い描いていた人物』に会える可能性は
高いはずだと思ったから。


でも現実、それは「自分の意識の及ばないところ」
に存在していた話。

なので、これは神の視点から見ると、
自分にとって起こり得た出来事であり、
自分目線で見れば偶然の出来事。
相手にとっては、
ある程度必然性を孕んだ出会いだった
と言えるんじゃないか。


人との出会いって何なのかを考えると複雑で、
それぞれにストーリーがあるが、

意外とそれは人と出会う前から
自分の意識の及ばないところで独りでに
進行していたりするものだと思った。

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