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強さとか、弱さとか、いつもの。

最近、人と会う機会が沢山あって、その度に僕自身を含め、人は誰だって強い面と弱い面があるとよく思うので、今日はそういうことを書いてみます。

普段僕は人と接すると割とはっきりした口調で自論を投げかけることがあります。

それは、曖昧な言い方や口調だと、よく思われないと思ってしまう僕が根本にいるからだと薄々気が付いていました。

今思い起こしてみると、そのために少しは演技的な振る舞いをしていた時もあったように思います。相手には割と自然に感じられつつも僕的には虚勢を張ったような、自然体には少し遠い話し方。

それは、僕のある一面が喜ぶようなコミニケーションスタイルであって、もっとピュアで本当の僕自身が満たされるような思いの伝達手段ではないような気がしたのです。

目の向けたくない部分を直視してみると、僕の中にだって強がりの自分がいます。

そういう一面を終始貫き通そうとしてしまうこともありますし、今まで、貫き通そうとしても何らかの拍子でボロが出ることも、結構ありました。

ただし、ここで言いたいのは、常に武装した自分というのは、常に100パーセントの状態で現れるとは限らないということです。

人と会って別れるまで10パーセント武装したある一面の自分が終始いて、それに加えて、ある話題に面した時にはまた違う自分が70パーセント武装した状態で現れるといった具合で、僕的には経験したことがあります。

でもそこで思うのが、「強さを被せることであたかも平静や落ち着きを保たせる」に至らせるだけの「弱さ」というのは2種類くらいあると思いました。1つは欲望によるもの、もう1つはコンプレックスによるものです。

僕的には、前者はコミュニケーションを円滑に進めるための障壁ぐらいに思っています。

なんでかというと、自分のある一面というものは滲みでてくるものだと信じているからです。

「〜(不安)であるからこう見せたい」という欲は、いまの自分にはない、いまのその人にはちょっと離れた理想像を瞬間的に作る行為に他ならないのではないでしょうか。

逸れますが、もっというと、本当のその人らしさというのは、その人にはわからない部分にあり、言葉で伝えなくても全身から放たれるものだと思っています。ファッションや歩き方、呼吸や体温など...。

後者のコンプレックスにより生み出された弱い自分というのは複雑で、また別な機会に実体験を交えつつ思うことを書いていきたいと思います。


色々と書きましたが、僕自身人と接することが得意ではありません。

今でも、人との距離感がわからなくなることがあって、人間関係の最適解に思える自論を日々更新し続けています。

でも、本来なら人との関係なんて言葉にならないもの、する必要のないものなんてことはわかっています。

それでも、いづれ破綻することを防ぐために言う、「嫌われてもいい。」僕のよく言うこの言葉には、未来に起こり得る事態に対する不安を緩和しようという一見体に良さそうな成分が含まれています。

楽しかったら楽しいと言えばよくて、不快な事があったらそれを告げればいい。

ストレート過ぎる表現で人を落ち込ませてはいけなくて、言いにくいからといって避けてはならない。

今書いたような事をできるような素直で器用ではない自分は、またいつものように「あの時はこうして、こう言えばよかった」と途方に暮れている🕊


2021 5/25 に書き留めていたスケッチ的な文章に後から手を加えたものです。

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