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考察#1
この間、友達と話している時にふと考えたことがある。
こだわり続けることは不器用な生き方なのか、変えるべきなのか
私は今まで生きてきた中で、本当にやり切ったと言えることってあまり思いつかない。
学問は趣味でいろいろなことを学ぶのが楽しいけど、これには終わりがない。だから”やり切った”という感覚はまったくない。
分野を狭めてみても、教育学とか哲学はかなり勉強したけれど、やればやるほどできないこと、わかっていないことが明確になってきて終わりなんて見えそうもない。
中高の部活はかなり力を入れたと思う。けど自分ができるベストができたとは到底思えない。
今はジャズ研究会でpercussionを主にやっているけど、やっぱりやり切ったとは言えないし、まだまだ追求していきたい。
こんなネガティブなことを列挙している今もそうだけど、こういうようなことを考えていると、自分のやってきたことに対する自信がなくなっていく。
「もっとやれたはず」、「全力でできたわけじゃない」
自分を否定するような言葉ばっかりが思い浮かんで、すぐには消えずに心のどっかに暗い澱みになって沈んでいく感じがする。
こういう澱みは、たまに思い出させるかのように顔を出してくる。
大抵それは、自分が落ち込んでいたり、何か嫌なことを考えているときだ。
ただでさえ暗い気持ちなのに、過去の自分の思い残しが少しずつそこに重みを増やしてくる感覚。
あまり長く抱えたい感情じゃないのに、それはまた澱みのかさを増やして積もっていく
こういう時どうすればいいんだろう
うまく割り切って、やれたことを認めて、
自分のことを褒めてあげられればマシになるだろうか
それでも暗い部分は残って、いつか増え続けた容量に自分が圧迫されてしまうんじゃないか
こういう恐れがずっとある。
じゃあ、このサイクルを止めるにはどうすればいいか
まずは澱みを作り出してしまう原因を考えてみる。
端的に言えば、やれたはずだと思っていたことができなかったこと。ここに対する後悔なんじゃないかな。
もともと理想とするものが高くて、何かをやる上で「もっとこうしたい」なんてこだわりが大きい。
この重みが、実際やったこととの差を膨らませて、差し引いて残ったものが自分の中にのしかかっているのが澱みなのかもしれない。
楽な解決法はそのこだわりを捨てること。
よく、理想が高いのは生きづらい。程よいところで自分を褒めてあげないと、なんて慰める言葉があると思う。
その通りにすればいい。そうすれば日常の些細な達成感を抱き締めることができて、その積み重ねが自分への信頼につながるじゃないか
「生きててえらい」なんて最大級の褒め言葉だろう
でも、これは自分を否定することだと思う。
納得できないものにそれで成果を出そうとしてきた姿勢とかその道筋まで否定されてしまったら、寄って立つものがなくなってしまう
肯定されることがいちばんの否定だなんて皮肉だけど、そうでもないと自分は自分を好きになれない。
結局は納得できていない自分をこうやって文章に起こしながら眺めて、否定しまくった先にあるちょっとのこだわりとか自己愛みたいなものを確かめながらやっていくのが、自分を肯定する唯一のやり方なのかもしれない
クリエイターにしかそんな生き方は許されてない気もするけど
そんな人たちに憧れながら、やれるだけのことをやっていきたいと思った話でした。
何にでもなりたいけど何ににもなれないのは厳しいよなぁ
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