湯西川温泉の旅へ。(続編3、最後に)

昼食をとった後、まだ帰りの時間まではかなりあるので、やはり気になっている高房神社の上社の参拝階段に惹かれて、車で目的地へ向かった。

佐藤さんは、あまり関心がないらしい。車で休憩するというので、一人でお参りすることにした。

鳥居は新しいものだったが、細く長い階段を登って行くと、また極々自然に近いままで、かなり静寂と少し寂寥とも違う、古刹固有の雰囲気に包まれている空間があった。ここは三十三世音観音堂と同じく、やはり興味本位だけで行くのとは違う、観光名所とは違う、昔からの住民にとってとても大切な場所だと感じた。神事や行事や、古式由来の信仰の聖域というと少し違うが、案内板を読むと、栗山村の鎮守であり、公式に執り行われる行事以外では、余り立ち入るのをためらう感じにもなり、写真も撮ってしまったが、なるべく大切なものを感じた記憶の域で心に留めておこうと思う。

車を佐藤さんに出してもらったということもあり、かなりの効率の良さと、佐藤さんのアドバイス的なチョイスのおかげで二日目、最終日で湯西川のほとんどを回ることが十分に出来た。最後に湯西川温泉駅まで、送っていただく。駅までの道中の会話でも、佐藤さんからの示唆があったので少し。

今の社会は昔より構造的に複雑で、人間関係や会社組織などそれに与したり、なかなか上手く適応出来ない人が少なからずいるのでは、という話をされていた。でも、その人達のやり方、生き方で、生きていける場所やコミュニティがどこかにあるのではというお話もあった。だから、決してとは言わないが、無理して窮屈に合わせるだけでなく、本当に自分に合った生き方を、少し休む時間があるならば、ゆっくりと探してみたらいいのではという感じのアドバイスをいただいた。あと、それでも、やっぱり人は、たった一人では生きていけないので、誰かとの小集団でもいいが、家族単位ぐらいの組織でもいいから、高度なスキルが必要ではないが、関係性を持てるくらいのコミュニケーション力は、やはり必要では、とそこまでは、佐藤さんは言っていなかったが、自分は、話の中でそう受け止めた。また少しこの先の指針が出来た。これは、今回の旅の当初の書生生活のプランでは想定外だった。でも、結果一番心に残っている。

駅に着いて、少し併設されている道の駅を見てまわり、無事、帰りの特急券を購入して、少し、列車到着時刻まで長いので、佐藤さんには感謝の念を言葉足らずながらお伝えして、お別れした。また、どこかで、待ち合わせとかではなく、偶然でも会えるといいという感じがした。

最後に今回の旅の総括的な感想をまとめて。

夏に、築地本願寺に訪れた時に、余りにも大きなスケール感と静謐な空気に畏怖、畏敬の念を覚え、少し込み上げてくる感情があったが、それは、物理的な社殿や装飾物によるものだとか、また、信仰心とも違うが人間の生気にあるようなもの(本当に自分にそれがあるのかは、確信出来ないでいるが)に拠る何か(畏怖、畏敬)だと思っていたが、今回の旅で共同浴場の築地本願寺とは対極的な全く素朴な虚飾とは無縁の、ただただ生活の場である空間で、同じものを感じた。そこにも畏怖とは少し違うかも知れないが、上手く言えないが、空気感が漂う、確かな何かの雰囲気(アトモスフィア)があった。対極的だが近い、もしくは等しい何かを感じた自分がいた。これは、少しこれからの財産になったというか、少しいい経験になったと思う。

あと、佐藤さんと接して感じたのだが、人間は真円であるわけでは当然なく、でも、佐藤さんは佐藤さんの個性という、楕円でもないどこかが突出してカーブしていない、極めて、佐藤さん本来、かつ等身大の一つの円だという印象を受けた。こう解説しても、少し虚しいが、真円ではない、佐藤さんが魅力的だった。

こう何回かの投稿に分けて長く書き続けてきたが、やはり情緒的なもの、もしくは「愛」というものが、心の中で寂しいくらいに少しだけしか存在していないということ、表現として、言葉として出てこないのが、自分でも足りない部分ではないかという思いがある。まだ、その課題というと、勉強的な感じで嫌なのだが、また東京に帰ってきて、今回の旅で感じていることを、瑣末な日々の中から、何かしらの体験、経験を積んで、少しずつ、前に進めたことが出来たらいいと感じている。

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