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ジスロマック氏はゲームライターになった。

   ということらしい。その事実に気づいた。今日である。記事を遡ってみれば去年の10月か11月に、である。電ファミニコゲーマーというメディアにて執筆業をされている。最近、わたしのGoogleでは頻繁にFF14関連の記事をオススメしてくるのだが、その中にジスロマック氏の記事があったのでおや?と思っていた。寄稿したのかと思ったりもしたが、記事を読むと編集さんという言葉が出てくる。まあ、そういうことらしい。

    彼はまだ20歳そこそこであるらしいので、大好きなゲームについてライティングできて、それでお金が貰える仕事に就くことが出来たことは実に良かったのではないか。彼のnoteを読んでいる身としては、応援したい気持ちと何だか先を越されてしまったような悔しい気持ちが渦巻いてくる。いいなあ。僕も出版や編集の世界に憧れて何も持たずに飛び込んだひとりだ。あの頃の泥臭い馬車馬の如く働いた日々が懐かしい。彼もこれからそういった経験をするのかもしれない。けれど、憧れの職業であることは間違いない。例え苦労したとして、それもまた彼にとって本望であろう。

   彼の文体は独特である。全体的にはまだ若い文体ではあるものの、彼の持ち前の勢いのある書き方は読み手を飽きさせない。いまの若い世代の代表と言う意味でタイムリーである。そして彼らの年代で経験しているだろうゲーム体験もまた読み手にとって親近感がある。その感覚を持ったままライター業として執筆できることは貴重である。きっと彼はこれまで培ってきたあらゆる経験をフル動員して執筆業に勤しむのだろう。それはあらゆるエンタメ、ゲームに時間を消費してきた彼にとって、初めて読者に消費される側になったということでもあるのかもしれない。

    消費される側というのは別に僻みではない。書き手となると次から次へと書く題材を与えられ、時間との闘いが始まる。時間とは締切のことだ。編集ならそのタイムキーピングを生業とするが、対するライターはその文字に現れる経験値の方に需要が集中する。そちらにパワーがかかるあまり、時間という概念が抜け落ちるパターンもあるだろう。そうなると、書きたい欲と仕上げなければならない義務、そして時間的制限との闘いとなる。それは自分との戦いだ。クオリティと書きたい欲と大人の事情、そして締切という決して相容れない複数の要素が渦巻く世界だ。若いうちは勢いでなんとかなるだろう。しかしある程度歳を重ねてくるとどうしても疲弊する。そして枯渇する。それは誰にもやってくる。もちろん彼にもやってくる。

    若いうちはなるべく失敗したほうがいい。もちろん成功もいい。だが、失敗の方が何百倍も価値がある。なぜなら、成功者の成功の方程式は再現性がない。その人だからできた。ただそれだけだからだ。しかし失敗は違う。なぜ失敗したのか?は再現性が高い。つまり、成功よりも失敗をしないための方程式の方が価値がある。なぜなら誰にでも当てはまる。つまり再現性があるからだ。

     ある分野で成功した人は、その分野で更に成功しようとするだろう。それは過去の方法論の模倣であることが多い。誰も1度成功したらその方法論をやすやすと手放さないだろう。なぜなら唯一成功したやり方だからだ。しかし成功し続けることは困難である。成功の方程式はその年齢だからできた、その時代だからできたなどの理由が複雑に絡む。つまりいくら成功者本人でも、勝ち続けることは至難の業なのだ。しかしプロになると勝ち続けなければならなくなる。なぜなら勝たなければ次の仕事がなくなるからだ。だから何とかして勝てるように努力する。それは勝てば勝つほど難易度は上がるだろう。つまり、才能を磨けば磨くほど、体の中の潤いは失われ、枯渇していく。それは果たして幸せなことだろうか。

   仕事をしていてつくづく感じることがこの、枯渇するという感覚である。わたしも編集という仕事を長年やってきて、最近では営業みたいなこともするようになった。それは編集デザインというクリエイター側だけの立ち位置では仕事にならないという現実を知ったからだし、もっと読者寄りの読者に近い原稿を作りたいと思ったからに他ならない。そうして土臭く仕事をしていくことこそが私がいましている仕事の本質である。それは私が望んでしていることであるのだが、どこかで本来の目的を忘れ、心も体も疲れ、すり減ってきていると感じることもある。そういうときに自分の中に枯渇を強く感じるのだ。自分との戦いと言えばまさにそうなのだが、如何せん、自分の中にあれほど湯水のように溢れていたやる気がある日突然湧き出さなくなっていることに気づく。それを私は才能の枯渇と呼んでいる。才能というとやや偉そうだけれど。私には才能なんてない。そんな風に言うとどんな風に聞こえるだろうか。

   ここまで書いてきてわたしはライターなのか?という疑問がある。ライターとして駆け出しの頃はロクに文章を書けないポンコツライターだった。あの頃から何が変わったのか分からない。未だに自分が納得のいく文章を書けた気がしない。少なくともここ数年、ブログを続けてきてようやく研ぎ澄まされてきたなという感じはあるのだけれど。私の場合は取材をして書いていく文章に慣れすぎている。自分のやりたい文体は自分の中から溢れ出す言葉を忘れないように書き留めておく芸風だ。毎日投稿し続けることを最初は自分に課していたわたしだが今は3、4日に1記事という体たらく。だが続けているだけマジではある。

   個人的なことを言えばライターとして生計を立てたいわけではない。書きたいことをちゃんと自分の言葉で書きたいという欲の方が勝っている。いや、ライター業をしていないわけではないし、できれば定年前にはライターとして独り立ちしたい気持ちは強い。けれど、私の中で今もふつふつと湧き出ている気持ちは、私の中に蠢く気持ちを、気持ちを乗せて表現すること。私の中に生まれた言葉を、その生々しさを殺すことなく、表現したい。ただその1点のみなのである。末筆となったが、これからもジスロマック氏のますますの活躍を期待したい。あ、最後に一言。彼の彼らしい感性をこれからも無くさずにいてほしいと強く思う。できれば機械的な紹介文や解説ではなく、生々しい文体を続けて欲しい。これからも頑張ってください! 

MUSICAでした...♪*゚

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