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【小説】天国へのmail address第六章・ひと時の奇跡から『黄泉の国』へ

ひと時の奇跡
 病室で紀子は涙にくれていた。ほんの数十分前に医師から臨終を宣告された。覚悟をしていた事とは言え、現実になると涙が溢れて立っても居られない状況であった。本来ならば医師が臨終の宣告をした時点で、看護師は患者だった方の体に取り付けられた器具や設備を外し、消毒をして次の患者用にスタンバイするのが原則だ。しかし、橘の担当看護師だった渡辺雅恵(わたなべまさえ)はそれをしなかった。紀子の落胆が大きすぎて彼女の目前でその作業を行う事がはばかれたからだ。雅恵は少しの間だけでも二人きりにしておこうと静かに病室を出た。
「すぐに作業をしなさい」と言う看護師長に「あと少しだけ」と頼み込んで廊下で待機していた。そろそろ落ち着いた頃かと雅恵が思った時だった。
「看護師さん! 看護師さん!」と紀子の叫ぶような声が病室から響いてきた。慌てて雅恵は病室に飛び込む。
「橘さん! どうしました?」尋ねる雅恵に、紀子は心電図モニタを指差した。それは奇跡であった。先ほどまで真っすぐ一本線で示されていた心電図が微かに波を打ち始めていたのだ。しかもそれは、見る見るうちに大きく触れ出した。雅恵はすぐさま医師を呼びに走った。
「橘さん! 橘さん!」駆け付けた医師はそう呼びかけながら脈を取っていると橘の瞼が緩やかに開き始まった。
「奥さん奇跡です」医師は信じられない出来事に目を擦りながら言った。
「せんせい。すこし、つまと・二人だけに……」か細く絶々な橘の言葉に医師は頷き雅恵を促して病室を出た。
「あなた、しっかり」紀子は橘の手を握り締めて言った。橘のその手に落ちた、紀子の涙は暖かく、握り合った手のぬくもりが橘に少しの力を与えていた。
「めも・ぺん・たのむ」単語だけの言葉に紀子はサイドテーブルに置いてあったメモ用紙とペンを橘の手に握らせた。橘は必死に何かを書いていた。かなりの時間がかかって書かれた文字は全て平仮名で【ゆうくん・ごめんなさい・りょうまさん・こうえんのじむから・めーる】の一行だった。
「これは何ですか? 私はどうすれば良いのですか?」紀子が問いかけたが橘は寝息を立てて眠ってしまった。数時間の時が流れていた。その間紀子は、橘の手を握り締めて離す事はなかった。
「ずっと手を握っていてくれたのか?」目を覚ました橘は少し元気な声になっていた。
「先生がね、奇跡だって」紀子は涙声で言った。
「そうか。奇跡か。でも奇跡はそう長く続かない」
「どうして、あなたは若い頃からしぶといので有名だったでしょう」紀子が作り笑いで言った。
「自分の事だから、私が一番良く分かる。長くはない。頼みがある」
「何でしょう?」
「私が死を迎えた後に優君と言う小学生が訪ねてきたら、このメモを渡してほしい」
「渡せば良いのですね」紀子の問いに橘は無言で頷いた。
「もう一つ、私が逝ったら直ちに私のスマホを叩き壊してほしい」
「このスマホを壊すのですか?」橘はまた無言で頷いた。
「必ず、必ず壊してくれ! 直ぐにだぞ」この言葉を言う橘には少し力があった。それは、ろうそくが燃え尽きる直前に大きく炎を上げるそれに似ていた。
「分かりました、分かりましたから、もう逝くなんて言わないで下さいよ」
「長い間世話になった。我がままばかり言って申し訳なかった。君のお陰で本当に良い人生だった。ありがとう」橘はそう言うとまた目を閉じた。しばらく寝息を立てていたがやがて心電図モニタはピーと言う悲しい音と共に一本の線になった。ずっと廊下で待っていた雅恵はその音に反応し病室に入った。手を握りしめたまま橘の屍に付している紀子に雅恵は涙を目に溜めながら言った。
「先生を呼ん出来ます」雅恵が出て言った病室で紀子はひとりごとを言う。
「全く最後の最後まで我がままで頼み事ばかり、しかも二つも」そう言うと紀子は橘のスマホを床に叩きつけた。バキッ! 音と共にスマホは跳ね上がり再び床に落ちる。同時に紀子は両手で顔を覆うと膝から崩れ落ち激しく泣いた。奇跡は長くは続かなかった。
 
 
『黄泉の国』へ
 
 橘は走っていた。一つ目の山を越えようとした時、ポケットに重みを感じた。立ち止まり確認をする。確かに橘のスマホがポケットに入っていた。『ありがとう! 紀子』そう心で叫ぶと橘はまた走り出した。歩いている人々を何人も追い越した。当たり前の事だ。ここを歩いている人々は橘が乗る船の次の船に乗るのだろう事は既に分かっている。門番から借りた懐中時計を見ると後五分しかない。紀子との別れが惜しく少し眠り過ぎたようだ。急がねばとスピードを上げる。橘にはどうしても『黄泉の国』へ行かねばならない理由がある。自分も『さまよい霊』になってしまったら本末転倒だ。何としてでも出航に間に合わなければと必死に走った。やがて、川が見えてきた。門番が大きく手招きをして叫んでいた。
「橘さん急いで! もうすぐドラが鳴りますよ」
「お世話になりました」橘は門番に借りた懐中時計を返しながら丁寧にお礼を言って船に乗った。ドラが鳴り、ボーボーという汽笛が響きゆっくりと船は岸を離れだした。
「ご用はお済ですの?」気が付くと千恵子が横に立っていた。
「お陰様で何とか間に合いました。ただ、これからが本番です」
「死んだというのにお忙しい事で何よりです」千恵子は微笑みながら言った。橘はスマホを握り画面を見つめながら呟いた。
「頼む! 気付いてくれ」
 
 出航して数時間が立った。船は『黄泉の国』に近づいて行く。現世側は『船着き場』という言葉が正に適合したが、こちら側にはその言葉が似合わない。それは整備された『港』である。橘が紀子のお陰で戻ってきたスマホを見ると、画面に表示された月日はこの数時間の間に一週間もたっていた。
「現世では初七日の法要がすんだという事なのですかね」金次郎が言った。
「これでは間に合わない。六日も日が経ってしまったら間に合わんかもしれない」橘は声を荒立てた。
「橘殿はまだ現世に御用がおありか?」金次郎は心配そうに尋ねた。
「助けなければならない人がいます。約束をしたのです」
「せっかく『黄泉の国』まで遣って来たのにまた現世に戻るおつもりか?」
「戻ります。何としても。しかし、六日も経ってしまったら間に合わないかもしれない、母校に戻って、第三者委員会の保護者説明会までにやらなければならない事があるのです」橘は悔しそうに言った。
「橘殿、大丈夫でござろう。今は告別式の日に初七日の法要もやってしまいますから現世では六日もたっていないであろう」金次郎の言葉に橘は少し安心した。
 
 船が着岸すると順に下船するようにとアナウンスが流れた。橘達は列に並び港の広場に降り立った。『黄泉の国』の門番は老夫婦であった。拡声器を片手に新住民へこの国の過ごし方を説明し始まった。
「皆さん! 『黄泉の国』にようこそ! 皆さんにはまずこの国で生活する家を選んでいただきます。次に必要なものを書き出して頂きあちらの店で受け取ってください。金銭は一切必要ありませんが、この国にあるものは全て現世で壊れたり廃棄になった物ばかりですのでその点はご了承ください。それ以外はご自由にお過ごしください。仏になるために修行を希望する方は『仏』と表示された小屋に並んでください。生まれ変わりを希望される方は『変』と表示された小屋に、このままここで生活をする方は『住』の小屋に行ってください。」門番の老人は両手を大きく動かしながらそれぞれの小屋や店の位置を説明した。
「何かご質問はございませんか?」今度は老婦人の門番が言った。
「この国にはパチンコ店はありますか?」遊び人風の男が質問した。
「ございますよ。現世で火事や災害で消失した建物等は全てこの国に運ばれてきます」
「すいません!」橘が手を挙げた。
「どうぞ」
「向こう岸で聞いたのですが、申請をすれば一週間だけ現世に戻れるそうですがその方法は?」橘は焦りからか早口になっていた。
「理由によっては戻れます」老夫人の門番が答える。
「お願いしたいのですが」橘が言う。
「住む家を決めてから私達の小屋にお越しください。申請書をお渡し致します」
 
 橘と千恵子はこの国で生活する事を選んだ。『住』の小屋は長蛇の列が出来ていた。『十王審査』とやらの厳しい審査を受け仏として現世の人々を導く修行を選ぶ『仏』と再び死が決まるまで今までの記憶を失う代わりに新しい命を得る『変』の小屋は人気が無かった。特に『変』は次の命が何になるのかわからない不安で特に人気が無かった。
「私は、戦争で亡くなった主人を捜します」と千恵子が言った。
「わしは、もう一度芸を極めたい!」金次郎が言う。
「でも、また歌舞伎役者に生まれ変われるとは限りませんよ」そう言う橘をさえぎって金次郎は『変』の小屋へと歩き出した。
「わしは昔から幸運の持ち主だったのじゃハハハ」橘達はそんな金次郎を見送った。
「ご主人と出会えると良いですね。橘は自分の住む家を千恵子の選んだ家の隣に選択し言った。
「橘さんはもう一度現世に?」
「行ってきます。留守をよろしくお願いします」そう言う橘に千恵子は優しく頷いた。
 
 港はまだ人が多かった。門番夫婦も忙しそうにしていたので橘は少しの間、港付近を散策して歩いた。港から真直ぐ伸びた広い道路の一角に古びた写真館があった。『上野彦馬写真館』と看板が掲げられている店のショーウインドーには歴上の人物の写真が飾られていて、貼られたポスターには『あなたも成れます有名人。貸衣装』とキャッチコピーが書いてあった。興味を持った橘は恐々ドアを開いてみた。カランカラーンと言う鐘の音がして中から髭の老人が出てきた。
「いらっしゃいましー」訛りがあった。
「あのー。衣装を借りられるのですか?」橘が聞く。
「何でも有りますだよ」
「坂本龍馬は?」
「有るだよ」髭の店主は、一度奥に入ると、組あい角に桔梗の家紋が付いた着物と袴を出してきた。橘は一式レンタルする事にした。現世に戻った時に少しは違いを現したかったからだ。
「刀も持ってゆけ! 坂本先生の愛刀と同じ『陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)作の大刀じゃぞ」髭の店主は大刀を腰に差してくれた。『これはどうする? 持っていくか?』と言いながらピストルを差し出す店主に橘は断った。重たかったからだ。
「写真は?」と尋ねる店主に橘は言った。
「返却の際にお願いします」橘は紋付袴で腰に大刀を指して港まで歩いていた。気分は憧れの人になり切っていた。その時、橘は急に思い出した。『上野彦馬』あの人は長崎で龍馬の写真を撮影した日本初の写真家上野彦馬か。歴史好きの橘にとって『黄泉の国』は正に『夢の国』だ。
 
港は空いていた。
 
「すいません!」小屋のドアを激しく叩くと中から男の門番が顔を出した。
「先ほどの方ですか。出で立ちが変わりましたね。少しお待ちくだされ」そう言って門番は一枚の紙を持ってきた。
「これが申請書ですか?」橘は言った。
「いかにも。必要事項を記入して下さい。審査に回します」と言うと門番はペンを差し出した。それは、名前とこの国の住所、スマホの番号、メールアドレスの記入欄と現世に戻る理由を記入するだけの簡単な申請書だった。橘は必要事項を即座に記入し、現世に戻る理由の欄には『助けを待つ友人がいる』とだけ書き門番に渡した。
「LINEのアドレスが分かりません」橘は素直に言った。
「この国ではまだLINEは極一部でしか使えません。何せLINEをインストールしてあるスマホが極端に少ないものですらね」
「ではメールアドレスはEメールで良いのですね」
「しかるべく」門番は言う。更に門番は記入事項を確認すると続けて言った。
「確かにお預かりしました。審査には少し時間がかかります。その辺でお待ちください」
「どのくらいかかりますか?」橘は船の時間が気になった。
「次の船が出航するまでには審査が終わります」
「次の船はいつですか?」
「二時間後です」
「あのー。許可されない事もあるのですか?」
「もちろんです」門番は冷たく答えた。
 
 橘は一日千秋の思いで許可が出るのを待っていた時だった。
 
スマホが突然震えた。
 
(龍馬さん死んじゃったの? 友達の貴ちゃんが皆から無視されて、龍馬さんがいなくなって、僕どうすれば良いの? 僕も龍馬さんの所に行きたいよ)
優輔からのメールだった。
「気づいてくれたのか」橘は改めて紀子に感謝した。
(優君ごめんね。優君に勇気出してなどと言いながら龍馬さんは病気に負けてしまいました。戦う勇気をなくしてしまった結果です。でも、龍馬さんが優君を迎えに行くまでジムから動かないで待っていてください。約束です)
 
橘は即座に返信を贈った。
 
(龍馬さん何処にいるの?)
(『黄泉の国』にいる)
(もう会えないの?)
(そんな事ない! 会いに行く!)
(僕の友達が皆から無視されているの)
(知ってる)
(僕、辛いよ!)
(龍馬さんはが直ぐに行くから一緒に戦おう。優君頑張れ!)
 
橘は、いらいらして辺りをうろうろと歩き回りながらメールを打っていた。そんな橘に門番が近づいて来て言った。
「橘さん! 許可が下りましたよ。乗船してください」
「ありがとうございます。これで助けられます。」
「意外に早く許可が出たのは、あなたが自分のためでなく他人のために申請したからです」
「期限は一週間でしたね」
「現世の時間で一週間です。向こう岸に降りたら向こうの門番にハンコを押してもらって下さい」
「ここにハンコを押してもらうのですね」橘は許可書の押印の欄を指差して言った。
「はい! 向こうの門番はもう会っていますね」
「顔なじみです」
「押印されたら直ちに思い入れのある場所に移動します。必ず日にちと時間を確認して一週間後にその場所に居て下さい。こちらの国にひとりで戻る場合はこの場所に戻ります。連れて帰る『さまよい霊』が一緒の場合は向こう岸に戻ります。その時は船でここまで来てください。もしも、一週間以内に戻りたい時はスマホのこのアドレスにメールをしてください。直ちに戻ります」門番は橘のスマホ画面の一部を指差して言った。そこには『黄泉の国』へ直接繋がるメールアドレスが表記されていた。橘はそのアドレスをスマホに名前を付けて再登録した。
「分かりました。ありがとうございます」橘は丁寧に礼を言うと乗船口に歩き出す。
「橘さん! 頑張って! 健闘を祈っています」門番は橘がこれから何をしようとしているのかを知っているかのように声援を送ってくれた。
                               つづく

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