エッセイ : 生きていればきっと
長い試験期間を終えて、僕の気はだるんだるんに緩んでいた。
もうすぐ春休みだ。なんて思いながら返却されてくる自分の解答を見て一喜一憂。
自分のやるべきことはもうない。なぜだかごく自然に、そう思ってこの一週間を過ごしていた。
だが、そういうときに限って僕は、肝心なことをすっぽり忘れている人間である。
一言で言おう。やらかした。
詳細はややこしいので省くが、僕の精神はその「やらかし」によって酷く憔悴していた。
あああ、胃が痛い。
そんな中、今日、友達が僕を日帰り温泉に誘ってくれた。
気晴らしに行こう。そう言われた僕は、彼がくれた傷薬を躊躇いもなく飲んだ。
僕と彼、そしてもう一人の友達と一緒に温泉へと向かった。
温泉に着いて、ロビーでお金を払い、脱衣所を経て、僕らは癒しの空間にたどり着いた。
久しぶりの温泉。露天風呂。湯に足を浸した瞬間からピリピリと身体に心地よさが染み込んでいく。
もう、ほんと、このまま死んでもいいですわ。
あとはキリキリ痛む腹さえ治ってくれればいいのに。
暫し露天風呂を堪能して、三人で語り合い、会話が盛り上がっていたところで、二人のおじいさんが風呂に露天風呂に入ってきた。
邪魔にならないように浴槽内を移動した直後、おじいさん達に話しかけられた。
「旅行かい?」
僕らは突然のことに戸惑いつつも、受け答えをした。会話は意外にも盛り上がっていた。
話が落ち着いたところで 、一人のおじいさんが少しだけ真剣な表情をして話し出した。
「今のうちにだよ? 警察に捕まるようなことじゃない限り、何でもやりなさい。色んなことが見えてくるから。」
「みんな弱いんだから。打ちのめされることだってあるさ。けれど、経験があれば乗り越えられるものがあるんだ。だから上手くいかないからっていじけちゃいかんよ。」
「生きてればきっと、いいことがあるさ。」
笑顔でそう言ってくれた。
70歳になるというおじいさんの言葉にはしっかりとした重みがあって、僕らは抵抗なくそれらの話を受け入れることができた。
まるで心を見透かしていたように、おじいさんはしっかり僕の目を見て、この話をしてくれた。
もうなんだか泣きそうで、身体に染み込んでいるのが温泉の湯だけではないと気がついた。
ジンという感覚が胸に流れた。
こういう瞬間、心の隙間が埋まるような感覚を体感する。僕の中の何かが変わって、また新たな隙間を作るだけかもしれないが、少なくともこの時だけは満たされたと思えるのだ。
漫画や小説なんかでよく見るフレーズだと思うかもしれない。ただ、実際に70年という歳月を過ごしたおじいさんから言われた言葉達は、息をしていた。
僕はヘタレで、何をするにも他人の目を気にしてしまう。「やらかし」の発端もそれがひとつの原因であったりもした。
こんな自分が嫌で仕方がないと、思いたくなくても思ってしまっていた。
おじいさんにとっては若者に言った何気ない話だったのかもしれない。けれど、その話で少なくとも僕は救われた気がした。
いつの間にか胃の痛みは消えていた。僕の身体をぬくもりだけが包んでいた。
おじいさんは急に恥ずかしくなったのか、この話をしたすぐ後に風呂を出てしまった。
お礼を言い、おじいさん達が返事をして、露天風呂はまた僕ら三人だけになった。
少しの沈黙。そのあと、おじいさんの近くにいた友達が口を開いた。
「なまら酒臭かった。」
どうやらおじいさん、相当飲んでいたらしい。
べろんべろんの状態で僕らにあの話をしてたのかと思うと、なんだか真剣な雰囲気だったのが馬鹿らしくなってきて、三人で笑った。
僕の「やらかし」から始まり、日帰り温泉に行って素敵な出会いをして、最後に楽しく笑い合えた。
いいことあったよと、おじいさんに伝えられなかったことが少し心残りだった。
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