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Mr.Right 理想の人と出会えましたか

「ゲスワッ!」
 美帆が受付のラップトップに向かっていると背後からステファニーの興奮した声が聞こえてきた。生徒のカウンセリング資料を作っていた美帆は、驚いて肩をあげた。
「Guess what, Miho.」
 振り向いて見上げると、ステファニーが満面の笑みをうかべていた。アイダホ州出身で来日して3年になる。赤いフレームのメガネが金髪のお下げ髪によく似合う。そして100キロ以上はあるかという大きな体も彼女の明るい性格とよく合っていた。
「ハイ、ステファニー。I don’t know. You look so good.」
「Com’on, Miho. It was so fantastic! Yummy!」
「ああ、スタ丼食べたの?」
「That’s right!」
 ステファニーは大のどんぶり料理好きで、美帆の働く英会話スクールのある横浜駅西口界隈の飲食店のどんぶりメニューはほぼ制覇していた。数日前には、少し遠いが「伝説のスタ丼」という店に行くんだと息巻いていた。
「Yesterday? By foot?」
「Yeah, I found it easily.」
 もうすぐ11時になる。午前中はプライベートレッスンが一つあるだけだ。午後になったらもう一人のネイティブの講師が来る。美帆が働くスクールは、講師は外国人も含め全員女性、教室長は男性だが近隣のいくつかの教室の責任者を兼務していて滅多に姿を見せない。事務社員も全員女性。夕方からのクラスには男性の生徒も混じるが、それまでの午後のレッスンは、生徒の8割が主婦である。自分がこんなに女ばかりの職場で働くことになるとは思ってもいなかった。
 5年前に入社したときには、大手のようにはいかずとも、ルックスのいい男性の外国人講師と恋に落ちることもあるかもしれないなどと、淡い期待も抱いていた。女子校を出て短大へ進学し、共学とは名ばかりで女子学生だけの英文科で短い学生生活を終え、小さな船を漕ぎ出した社会人生活だった。給与面で不安はないが、ここにいたら異性との出会いがないまま二十代が終ってしまう、そんな焦りがだんだんと恐怖に変わりつつあった。
 ステファニーの大きなお尻がクラスルームへ消えて行く。ふと手元の卓上カレンダーを見た。その月は2回も友人の結婚式に呼ばれていた。なんで私は恋ができないんだろう。合コンとまではいかなくても、友達が「いろんな子が来るよ」と誘ってくれるご飯会へ行けばLINEのIDを交換して帰ってくる。そんな風にして増え続けたLINEの男友だちはもうかなりいるのにメッセージが来ることは全くない。
「宮木さん」
「はい」
 スライドドアで仕切られた背後の控え室のほうから自分の名前が聞こえた。先輩社員の声だった。ドアが少し開いている。思わず返事をした。
「……、そうですか、はい、はい……」
 どうやら電話しているらしかった。自分のことが話題になっているのだ。どんな内容だろうか。気になったまま体の向きを前に直した。受付からは、教室入口のガラスドアとその横に貼ってあるタイムテーブル、傘立てとその脇の観葉植物が見える。レッスンの時間になると生徒が入ってくる。笑顔で迎える。顧客満足度をあげて次のレッスン契約を取る。給料が自分の口座に振り込まれる。どれをストップしても生活のサイクルが立ち行かなくなる。素敵な出会いなんて贅沢だ。結局これが私の世界の全部なんだと、美帆は大きな溜め息をついた。
「宮木さん」
 背後のドアが開いて先輩社員が出てきた。
「宮木さん、昨日話した研修なんだけどね、ちょっと予定が変わっちゃって、急なんだけど、今日、行ってくれないかな?」
「え? 今日ですか?」
「うん、そうなの。今日を逃すと4月になっちゃうのね。4月ってほら、繁忙期でしょう」
 30代半ばの大曽根はスクール業界が長い。出産する前は大手予備校で授業の企画と事務をしていたという。ワインレッドのカーディガンの袖で手の甲を隠し、揃えた前髪の奥に黒い眸が光っている。機嫌が悪くなると眉間に皺を寄せる。午後の予定が台無しになるがおそらく逆らえるはずがない。
「わかりました。あの、場所とか時間は変わらないんですよね」
「うん、市の産業会館」

 研修というのは、美帆が勤務している会社が加盟する、同業他社の協議会主宰の勉強会だった。内容はクレーム対応の講習やビジネスマナー講習で、終ったあとに懇親会がある。
 横浜駅から2駅分電車に乗り、たったその2駅ぶんの車両の中で男性の多さに驚いている自分が情けなかった。結婚する友達の顔が目に浮かんだ。
 予想した通り参加者はほぼ女性だった。机に置いたり頬杖をついたりしている参加者の左手を目で追った。50名近い参加者の薬指に指輪があるのは、4、5名しかいなかった。
 講習が終わりビルの最上階へ移動した。地上18階の最上階は研修室は少なく、三分の一ほどの面積がラウンジになっている。その日は懇親会のために、ふだんまばらに置かれている椅子とテーブルが寄せ集められ、ブッフェスタイルのセッティングがされていた。
 会社のお金で食べられるのだからと、美帆はさっそくオードブルからお皿に盛った。数少ない男性参加者は、3つか4つ出来ている人垣の向こうだった。
 立食形式だったが美帆は我関せずと一人壁沿いに並ぶ椅子に座り、サーモンの手まり寿司やら小籠包やらを頬張っていた。
「失礼します、こちらに座ってよろしいでしょうか」
 見上げるとそこには、烏龍茶のグラスを手にした腰回りのスラリとした女性が立っていた。
 丁寧にひかれたアイライン、ブルーグレーのアイシャドウ、ショートヘアの黒髪は量感豊かで透き通るような白い肌にオレンジ系のチークがぬってある。小さな口があごや頬骨を華奢に見せていた。口角をあげ目尻を下げると目の廻りや豊麗線のあたりにシワが走るのだが、笑顔の華やかさにシワなどさして印象に残らない。
 美帆は口に入れかけていたカツサンドを皿に戻し、背筋を伸ばした。皿をテーブルに置いて名刺入れをポケットから出したほうがいいだろうかと迷った。
「いいのよ、そのままで。そのまま召し上がっていらして。ちょっとこの雰囲気に疲れちゃって、私も少し座っていたいの。一人でいると必ず誰かに話し掛けられるでしょう。だから、申し訳ないけど、横にいさせてくださる? ごめんなさいね、こんなこと頼んじゃって」
「はあ」
 その女性は躊躇せず美帆の隣に腰をおろした。
「ねえ、こんな研修、退屈よねぇ。英会話人口なんて減るばっかりだし、いくらオリンピックって言ってもね、いま、ボランティアで英語を教える人がたくさんいらっしゃるでしょう。こんなこと言っちゃいけないけど、この業界もどうかしらねえ。あなたの職場はどう? お仕事は大変? お客様、たくさんいらっしゃる?」
「ああ、なんか……。お客さんて、主婦の中高年の人たちばっかりなんですよ。その人たちが長く教室を続けるとは思わないし、まあ、あんまり明るい展望はのぞめないと思いますけど……」
「男性はいないの?」
「いません」
「全然?」
「全然いません」
「珍しいわねえ、ウチなんか若い男性の生徒さんが多くて、ちょっとイヤがる女子社員もいるくらいよ」
「ええ?」
「それね! それが原因だったのね。いえね、あなた遠くから見たらとっても沈んだ表情していらして、どうしたのかしらと思って。健康そうだしお顔立ちもキレイだし、それにほら、勤勉そうな目をしているのに、なんでこんな暗いお顔しているのかしらって思ったのよ。ねえ、あなた、そんなに思い詰めるんだったら、わたしたちと一緒に働かない? お給料は高がしれているけれども、楽しく働けると思うわよ」

   ◇  ◇  ◇

 三ヶ月後、美帆は新しい職場のネームタグを下げていた。
「初めまして。宮木美帆といいます。よろしくお願いします」
 美帆の両目は希望に輝いていた。6人いる外国人講師のうち5人が男性、しかも美帆が担当する講師は二人とも男性だった。一人はトロント出身のジェイソンで、もう一人はメルボルン出身のスティーブだ。ジェイソンは褐色の肌で坊主頭、いつも潤んでいるような優しい目と長い睫毛の持ち主だ。内気な性格で、大学を出たあとお金を貯めながら一人で世界中を旅している23歳。スティーブはもう15年も日本に住んでいる日本文化愛好者だ。富士山に10回登ったと初めて会ったときに話してきた。「10 times!」と言って自分でも呆れたように笑っていた。
 クラス選びの相談に来る生徒たちも、5人くれば3人は男性だった。15分程度の簡単なテストをして、その場で採点し、結果をみながら一対一で1時間近く話すこともある。このとき、なるべく生徒のやる気を引き出して契約料金の高いコースへ誘導するのが美帆の仕事だ。
 笑顔で、親身に、自分の経験も交えながら、英語力習得の感動を話す――、それは前の職場でもやっていたことだった。だが今度のスクールの相手は会社帰りの男性が圧倒的に多かった。そして、前と決定的に違ったのは、すぐにお客さんが美帆のことを名前で呼んだということだった。前の教室で仲の良かったお客さんたちは、ほぼ女性だったが、どんなに親しく世間話をしても美帆の名前なんかに興味を持つ人はいなかった。
「わかりました。宮木さんがそう言うなら、がんばってみます」
 スーツを着た男性にまたそう言われた。美帆はすかさず契約書類にサインと印鑑をもらう。
「一緒にがんばりましょう。困ったことがあったら、何でも相談してください」
 相談を終えた生徒がいなくなり、書類に視線を落とす。沢本和昌28歳、○○不動産、勤続年数6年、年収500万――。
「You got a minute?」
「あ、ジェイソン。OK, it finished.」
「I wonder if you would like to have a cup of coffee or something.」
「え? 何? カ、カ、カフィー?」
「I, want to, go, out, with, you. How about some coffee?」
「しゅ、しゅ、しゅあぁ」
 
 混み合うコーヒーショップで片言の英語で交わすジェイソンとの会話が楽しく感じられたのは、どこか心が吹っ切れていたせいかもしれない。人生初めての転職で酷くナーバスになっていた美帆だったが、実際に業務が始まってからは「なるようになれ」と腹をくくった心境だった。ジェイソンが話すこともほとんどわからない。ただ、肩から力が抜けると単語が耳に入ってきてジェイソンが言いたいことはだいたい理解できた。あとはもう子供にもどったつもりで、顔の筋肉をフル回転させ、身振り手振りをまじえ、言いたいことの十分の一でも伝わればいいと思った。奏功したのかジェイソンは飽きずに美帆の言うことにうなずいていた。話したのは初対面のときにした旅の話、日本の旅館のこと、好きな音楽の話などだった。
「Do you mind if I asked you to give me Line ID?」
「え? 何?」
「Your ID、Line」
 そう言ってジェイソンがスマホを出した。少し唐突に感じたがセンスよく断る英語の言い方など美帆は知らない。
「Sure.」
 その日の夜、風呂から上がるとジェイソンからメッセージが届いていた。
「Thank you for today. I like you. Would you date me?」
 体が冷えるのもいとわず、美帆は髪も濡れたままジェイソンのメッセージの和訳をネットで調べた。
 ちょっとおかしいんじゃない? こんなにすぐに言ってくるか、普通。スクールの日本人スタッフ全員に声をかけている可能性もあるってことじゃない?
 美帆はさすがに不審に思い、「今は仕事に集中したいから少し待って」をいくつもの翻訳サイトで調べ、信憑性の高い文章をペーストして返信した。返信までに優に2時間かかっていた。冷えた体でベットに入り、新たな同僚たちにジェイソンから声をかけられたことがないか確かめようと思った。

「ジェイソン? あの子真面目だからそんなことしないんじゃないの? それにおとなしいじゃない。トロントの大学にいたときのEx-girlfriendのことはちょっと聞いたことあるけど、もう何年も前に別れたって話だったよ」
 入社したばかりで誰と仲がいいというわけではないが、研修会で誘ってくれた教室長にたずねるわけにはいかない。ちょうど同じシフトで勤務していた年の近そうな同僚にきいた。彼女は英語力が堪能で、日本語の会話も英語の会話もよく耳に入って来ているに違いなかった。
「そうなんだ」
「なんかされた?」
「何も」
 そこへジェイソンが通りかかった。ベッドの中で、次の日最初に彼に会ったときに何と言えばいいのか、スマホで検索し続けていた。お陰で寝不足だ。
「さんきゅー、ふぉー、ゆあ……」
 曖昧に開きかけた美帆の口の動きを制するように、ジェイソンがこれ以上にないというくらいの笑顔になった。褐色の肌に潤んだ眸が輝いて見える。
「Don’t mind, Miho. I will wait for you.」
 去って行く彼の背中を茫然と見つめていると隣にいた同僚が声をかけてきた。
「やっぱりなんかあったんじゃないの?」
「え? ないよ」
「でも、いま、待ってるよって言ってたよ」
「それ、どういう意味なの?」
「え、知らないよ、そんなの。本人同士じゃないとわかんないでしょ」
 そんなことがあった日の夜、集中力を欠いたのか美帆は仕事がなかなか終らず、結局帰りのタイムカードを押したのが9時過ぎになってしまった。夜のレッスンのシフトで勤務するときと変わらない時間だった。エレベーターで1階まで下りて行くと、エントランスが真っ暗になっていた。前の日の同じ時間は電気もついていたし守衛さんもいた。もちろん、自動ドアの向こうにアルミの格子など下りていなかった。そして電源を切られた自動ドアの前に立て看板が出ていた。暗くて近づかないと文字が読めなかった。
「月曜日のみ、21時以降は北側出入口をご利用ください。」
 月曜日のその時間帯にそこに来たのは初めてだった。美帆は「北側出口」がどこなのかさっぱりわからなかった。通路が伸びて行く方へ行くしかないかと思ったとき、スクールのある6階に一度帰っていたエレベーターがまた1階に到着した。現われた男性に見覚えがあった。
「あ、宮木さん」
 確かに見た顔だった。状況からして担当している生徒に違いない。
「おつかれさまです、今帰りですか」
「あ、はい」
「あ、あの、ぼく、この前クラス選びでお世話になった沢本です」
「ああ、どうも。あ、そうか、レッスン、月曜日でしたね。いかがですか、クラスの様子は」
「ええ、宮木さんの仰る通りスティーブ先生もよくしてくれますし、同じクラスの人も気さくな人が多くて、楽しんでいます。宮木さんのおかげです」
「そうですかぁ、良かったです」
 沢本はネイビーブルーの厚手のジャケットの下に鮮やかなブルーのVネックセーターを着、チャコールグレーのチェックのスラックスを穿いている。不動産業で接客をしているかどうかはわからないが、物腰の柔らかさは伝わってきた。髪は前頭部の中央で左右に分け、丸い輪郭の頬が安心感を与えた。笑って顔がほころぶとなおさらだった。
「出口、わかりますか」
「いえ、わからないです、困っていたんです」
「僕も、最初はびっくりしたんですよ。こっちです」
 そう言うと沢本は最初の一歩を大きく踏み出し美帆の前に出ると、そのあとは美帆の歩幅を確かめるようにゆっくりと進んで行った。
「このドアの向こうなんです」
 沢本が体重をかけて押し開けたドアの向こうに夜間通用路と書かれた扉があり、脇に小窓のあるカウンタ―がある。手元ライトで出入館記録を誰かがみているような影が落ちていた。
 沢木が「英会話教室の帰りです」と言うとその小窓の人物が何かを操作するらしく、防火扉のような鉄のドアの施錠が解除された。
「こんな通用路、初めて知りました」
「ええ、僕も先週同じクラスの人に教えてもらったところなんです。それじゃあ、宮木さんはこちらで働いて間もないんですか」
「そうなんです、実は入ったばかりです」
「それで、もうそんなにお仕事ができるなんて、すごいですね」
「別の英会話学校で事務の仕事をしていたんで」
「そうですか」
 北側出口の外はビルの裏側だった。換気ダクトや大型の空調室外機が並び、従業員用らしい自転車置き場もあった。すべてが大きなビルの影に沈み込み、黒いシルエットだけになっていた。夜風が吹き沢本の髪が少し浮いた。
「なんか、メシ…、ご飯食べて帰りませんか。お急ぎだったらいいんですけど」
「ああ、はい。お腹空きましたね」
 明るく答えた自分の笑顔が沢本の目に映っていた。美帆はそのとき、トイレにも行かずにタイムカードを押して出てきた自分の額に後ろ髪が逆立ってかかっているのを知った。
 店をどこにしようか迷っている時間はないからと駅前のファミレスに入った。
 どこに住んでいるんですかという質問に自分でも驚くくらいに素直に答えていたのは、沢本の笑顔が好きだからだろうと、暖房で上気したようになった頭で考えていた。注文したドリアもオムライスも食べ終わり、皿はとっくに下げられていた。カップに一口分コーヒーが残っていて、それを飲み切って帰ることになるのが惜しくて手を付けられないという、その気持ちを沢本も共有しているという実感がこそばゆくもあり照れくさくもあり、美帆はこんな夜が永遠に続けばいいと思った。
 別れてから別々の路線の電車に乗ったあと、5分もしないで「楽しかったです。また機会があったらご一緒してください」というメールが来たことも、一人終電のシートに座る美帆の頬を緩めるには十分だった。
 
 翌日出社すると見たことがない男性名のメールを受信していた。講師にも受講生にもメールアドレス入りの名刺を渡すので、誰からメールが来ても不思議ではなかった。
 渡辺泰之という名前に覚えは全くなかった。受講生のデータベースで検索すると保護者名でヒットした。渡辺海斗(かいと)と言われればわかる。ジェイソンの幼児クラスの男の子だ。泣き虫で、前回のレッスンでもジェイソンからの内線電話が入った。海斗が泣き出してしまったのだ。美帆が抱き上げると泣き止んだが、教室から出て行こうとするとまた泣くので、結局レッスンが終るまで美帆がロビーのソファで膝にのせていた。受講者シートの備考欄に「父子家庭なので情緒が不安定なときもありますと保護者から申告あり」と記されていた。迎えに来た父親が美帆と自分の息子の姿を見つけると驚いたのか、あるいは何かショックだったのか、3秒か4秒くらい、美帆を見つめたまま無言で動かなかった。なんだろうと思ったが、数秒後には目尻を下げて笑顔になり、頭を下げた。
 海斗のことで渡辺とはロビーで話すことが度々あった。海斗の鼻水だらけになったハンカチを洗ってくるからと持ち帰ったこともある。
 届いたメールには、
「いつもお世話になっております。海斗のレッスンですが、ご迷惑なのでもう今後は伺わないようにしたいと思います」
 とあった。
 どう対応すればいいのかわからなかったので教室長に指示をあおいだ。研修の懇親会で美帆をこの会社に誘った青木すみれ教室長だ。社員からはすみれさんと呼ばれていたが、慣れない美帆は青木さんと呼んだ。
「青木さん、すみません、これ、ジェイソンのキッズクラスのお父さんからのメールなんですけど、見てもらっていいですか」
 メールのプリントアウトを受け取りながら、青木が美帆の顔を見上げた。懇親会でも見せた、あの、花が開いたような笑顔がもれた。
「宮木さん、いろんな人と出会えていいでしょう、ここなら」
「ええ、はい。でもちょっと頭がクラクラします」
「大丈夫よ、あなたなら。若いんだから」
「あの、これ、このメールの海斗君のこと、どう対応しますか」
「そうねえ、返金はしたくないし、できれば来てほしいのよね。来期も契約してほしいでしょう」
「はい」
「ねえ、電話してもらえる? 渡辺さんてとてもいい人なの。優しくてね。奥様はご病気だったんですって」
 そう言って青木はメールのプリントを美帆に差し返した。なぜかその時、背中の下のほうがすーっと寒くなったような気がした。同時に、青木すみれの洗練された身のこなしや外見に自分も近づいていけるような高揚感も胸の奥底に涌き出してくるのがわかった。
 渡辺を説得して参加させたが、次のレッスンでも海斗は泣き出し、ものの10分もクラスルームにいることはできなかった。
 泣きべその海斗をお父さんの膝に渡そうとすると美帆の腕にしがみついた。
「甘えて……」
 重い溜め息とともに渡辺から一言もれた。ライダース風の黒いジャンパーを着て無精髭を生やし、平日の昼間に息子の送り迎えができるのだからサラリーマンではないはずだ。
「すみません、ご迷惑かけて」
「大丈夫です、私は」
「女の人が好きなんです」
「はあ」
 それしか答えられずにいると渡辺は「スミマセン」ともう一度言い、いやがる海斗を美帆の膝から抱き上げた。そして逃げるように出て行こうとした時、渡辺はポケットから雑貨店の黄色いビニール袋を出して美帆に差し出した。大きさから洗ったハンカチが入っているのだと想像がついた。
「あ、わざわざ、ありがとうございます」
 美帆の言葉には振り向きもせず、渡辺はビルの廊下に出て行った。自宅に帰って袋を開けると、美帆のハンカチの他に、タグのついた白いシルクのハンカチが入っていた。光沢のある白い糸でアルファベットのMが刺繍されていた。
 これは行き過ぎだと思った。親密にならないように、次の水曜日、会って、ざっくばらんにハンカチの礼を言って済ませてしまおうと思った。だが、周りの目が気になり、結局メールで伝えた。5分と経たず返信が来た。
「受け取ってくださって、嬉しいです」
と一行だけの返信だった。
 その後も泣き出した海斗を美帆は何度か膝に抱いた。すぐに泣き止むこともあれば、ぐずったままレッスン終了時間を迎えることもあった。渡辺は困ったような表情で何も言わず、美帆の隣に座っていた。たまに「泣くんなら帰るぞ」と言ったが腰を上げることはなかった。
 
 昼休みに休憩しているとジェイソンからのメッセージが届く。講師控え室で顔を合わせているのに毎日美帆の昼休みを狙って送信してきた。
「I love your hair today.」
「You’ve got a great smile.」
「You are fun to be with! I like the way you think. 」
 その都度翻訳して意味を確かめ返信の英作文をすると短い昼休みがあっという間に終ってしまった。
 沢本とのファミレスデートは毎週の慣例となり、渡辺の息子のレッスンは水曜日の午前中だ。レッスンのたびに「今日もよろしくお願いします」とか「美帆さんに会えるので海斗がはしゃいでいます」とか、渡辺からのメールが頻繁に届くようになった。そのほかにも担当している講師や受講生が毎日数十人とやってきて、美帆に話しかけてくる。
 美帆は、いつ誰と何を話し、メールをしたのか、思い出せなくなってきた。
「宮木さん」
 青木の声だ。
「ねえ、宮木さん、こちらのお客様のカウンセリングをお願いできる? TOEIC強化クラスがご希望ですって」
――ああ、また、新しい人と出会うのか。
 長身のスーツ姿の男性と立つ青木の姿が滲み、視野が狭まる。現実世界がどんどん遠くなっていく。
――いや、ダメだ。一人になりたいと少しでも思ってしまったら一生孤独になってしまう。
 底知れぬ恐怖が美帆の全身を冷たくした。青木がまたあの満面の笑みで美帆を見ていた。
「こんにちは。はじめまして宮木美帆です。よろしくお願いします」
 笑顔でその人の前に座った。美帆が少し見上げる格好だ。
「お仕事でTOEICのスコアが必要なんですか」
 受講者シートの一番上に、左右の均整がよくとれた丸みのある字で東田道彦と書かれていた。
「ええ、はい」
 その時、東田が、あっと言った。
「はぁ、なんですか」
「あなた、光友女子高等学園の卒業ではないですか、えっと2008年ごろです」
 まさに美帆の高校と通っていた時期を言い当てた。東田の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
「あの、僕、同じ駅を使っていたんですよ、松ヶ丘駅。よく見かけてて…。いやぁ、恥ずかし、な、懐かしいなあ。こんな偶然あるんですね。いっつも単語帳持ってましたよね、勉強熱心なんだなと思って、あの、いや、俺、僕、隣の男子校で、そっちの学園祭行ったんですよ。いやあ、こんなことあるかな。うわー、まじ…、そっか。なんか、偶然っすね」


「青木さん!」
 その日の帰り、美帆はビルの外で青木の背中を追った。
「青木さん、待ってください」
 駅前ロータリーを囲むように植えてあるイチョウの木の枝が夜風に揺れた。山吹色の葉がしきりに舞い落ちた。街路灯に照らされた山吹色は、暗いビルのシルエットを背景に、月のように輝いていた。
「宮木さん」
 振り返った青木に駆け寄ると、美帆は自分でも驚いたことに泣いていた。
「私、どうなっちゃうんですか」
 風が吹いて乱れた横髪を青木がかきあげた。パッと白い肌の頬が見えた。アイシャドウが街の灯りに反射した。
「モテていいじゃない、才能よ」
「こんなことになるとは思わなくて」
「東田さんはどうだったの」
「一番高い週2回コースを契約してくれました。青木さん、私、ちょっと、どうしよう、ジェイソンにも、沢本さんにも、渡辺さんにもいい顔して…。無理だ、無理です」
 嗚咽がだんだん強まってきた。美帆はかまわずに続けた。
「私、もう絶対に一人になりたくない、人生に見放されたような思いはしたくないんです。私に用事のある人なんてこの世に一人だっていないんだって、心底思ったことありますか。私のアパートのあの部屋は、みんなから取り残されているんです。みんな別のところで楽しい時間を過ごしているのに、私だけそこに行けない。」
「じゃあ、誰かと一緒になればいいのよ。器用にやれば三、四人同時にできるわよ、宮木さん、若いんだから」
 まるでひとりでに、ひっきりなしに涙が溢れ頬や鼻筋を伝った。
「選べないんですよ。根本のことです。未来のことなんて誰にもわからないのに、一人の人を選べるなんて、迷信ですよ。私に何ができるんですか」
 鼻水が口からの喉の奥に入ってきて、くぐもった声になり、自分のその声に促されるように美帆はうなだれた。もうそれ以上言葉は出てこなかった。底知れぬ恐怖の輪郭が見えた気がした。
 青木は軽く美帆の肩を叩き、しばらく休みなさいと言い残し、駅へ続くエスカレーターに乗って姿を消した。

   ◇  ◇  ◇

 1週間会社を休み、美帆はその英会話スクールを辞めた。

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