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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第21回「決戦!桶狭間」)

■あらすじ

今川から元康(風間俊介)を離反させる工作は失敗に終わった。信長(染谷将太)は、父・信秀の教えを思い出し、今川が本当にうわさされるような2万もの大軍であることを疑い、前線へ出陣する。局地戦を展開して義元(片岡愛之助)自ら率いる本隊から徐々に兵を引き離す作戦を決行する。一方の元康は三河勢を駒のように扱う今川方に次第に嫌気が差し始め、織田軍の迎撃に加わることを拒否。そして暴風雨の中、数の減った今川本隊は桶狭間山での立ち往生を余儀なくされる。そこに織田の軍勢が襲いかかる。

■トリセツ

桶狭間の戦い
永禄3年5月19日。駿河の今川義元が、大軍を率いて尾張に侵攻。尾張国の桶狭間で、織田信長は少数の軍勢で今川本陣を奇襲。大将の今川義元を討ち取り、織田軍が大勝利を収めました。

今川義元は、なぜ「輿(こし)」に乗っていたのか?
桶狭間の戦いで今川義元は、馬ではなく「輿」に乗っていました。その塗り輿を目印に、織田勢に奇襲をかけられました。
当時、輿は一部の限られた高貴な身分の者だけが使用を許される特別な乗用具で、義元が輿に乗ることができたのは、足利将軍家の分家であり親密な関係にあったため将軍家から「外出時に輿に乗ってよい」という特別許可をもらっていたからです。
義元が輿に乗って尾張へ進軍したのは、織田家との家柄や格の違いを周辺に見せ威圧するための戦略的なパフォーマンスの意味もあったようです。

信長がうたった、幸若舞「敦盛」。
信長が清須城で戦況報告を受け「籠城する」と家臣に告げたあと思案しながらうたったのは、幸若舞「敦盛」の一節でした。
織田信長の一代記である史料「信長公記(しんちょうこうき)」でも、桶狭間へ出陣する前に信長が「幸若舞」の一節を舞ったと記されています。
ちなみに幸若舞は、能と並んで戦国時代の武将に愛好された芸能で、その中でも一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実を題材にした「敦盛」は特に好まれていたそうです。
劇中で信長役の染谷将太さんが口ずさんだ「敦盛」は、番組で芸能考証・指導を担当されている友吉鶴心さんの指導によるものです。

■大河紀行 愛知県名古屋市・豊明市

愛知県名古屋市。織田信長が今川義元との決戦を前に兵を集結させた善照寺砦(ぜんしょうじとりで)。

信長は兵を率いて、ここから決戦の地・桶狭間へと向かいました。戦場は名古屋市緑区から、豊明市にかけて広がる丘陵地一帯だったといわれています。

愛知県豊明市。義元が桶狭間の戦い前夜を過ごした沓掛城(くつかけじょう)。今は市民の憩いの場として親しまれているこの地には、曲輪(くるわ)や空堀の跡など、当時の面影が残されています。

義元は松平元康が居る大高城へ向かう途中、桶狭間に立ち寄ったといわれています。

織田家最大の敵・今川義元を打ち破り、その名を天下にとどろかせた信長。この歴史的勝利は、今なお語り継がれています。


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★左:東照宮大権現(徳川家康)坐像、右:伝通院(於大の方)坐像

1.前回のあらすじ


明智光秀は、
 ──今、織田信長が死ぬのは早すぎる。
として、織田信長を救う方法(てだて)を考えた。
明智光秀は、尾張人質時代の竹千代(現在の今川元康、後の徳川家康)が「母上(於大の方)に会いたい」と言っていた事を思い出し、策を考えて帰蝶へ送った。
 帰蝶は、その策に乗り、織田信長の名を使って、於大の方を熱田神宮(当時の呼称は熱田社、熱田宮。江戸時代の『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載されているが、「神宮」号の取得は慶応4年(1868年)6月)へ呼び出した。
 それを聞いた織田信長は、尾張人質時代の竹千代が「今川義元は敵である。いずれ討つ」と言っていた事を思い出し、「その手があったか!」と帰蝶と共に熱田神宮へやっ来た。「こういうこともあろうかと」と、於大の方は、竹千代宛の手紙を持参してきていた。その手紙の内容は、
・この戦から身を引きなさい。
・母はひたすら元康殿に会いたい。死ぬな。
であった。この手紙を竹千代に届けたのは、春次(菊丸)である。春次は、
・三河衆の独立のために今川義元を討って欲しい。
と願い出た。

明智光秀も、織田信長も尾張人質時代の竹千代しか知らない。そして、春次の考えも16年間変わっていない。ところが、竹千代は元服し、今川義元の「元」をいただいて松平次郎三郎元信(後に元康)と名乗り、今川義元の姪と結婚して、1男1女を儲けていた。今、今川義元を殺したら、「裏切り者」「恩知らず」と後世まで語り継がれてしまう。

 ──時が移れば、人も変わる。

子供の竹千代は、駿府の「安倍川の石合戦」で、「数の少ない方が勝つ」と判断したのに、大人の松平元康は、鳴海桶狭間の「桶狭間の戦い」で、「数の少ない方が負ける」と判断した。戦いって、強気な方が勝って、弱気な方が負けると思う。

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幼年繪本研究會編『偉人繪話』「徳川家康(安倍川の石合戦)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1735777/8

※福娘童話集「石合戦 徳川家康」
 長い間続いた戦国時代を終わらせて平和な江戸幕府を開いた徳川家康は、子どもの頃から物事を見定める力を持っていました。
 これは家康が九才の頃、まだ松平竹千代(まつだいらたけちよ)と呼ばれていた頃のお話しです。
 駿府(すんぷ→静岡市)にある、安倍川(あべかわ)の土手で、子どもたちが赤白二組にわかれて石合戦をしていました。
 石合戦とは、石を投げ合ってどちらが強いか勝負する事です。
 これを見ていた竹千代に、家来の一人がたずねました。
「竹千代さま。どちらが勝つと、思いますか?」
 竹千代は赤白両方の組をじっと見つめたまま、しばらく考えました。
「うーむ・・・」
 すると別の家来が、竹千代に言いました。
「竹千代さま、赤になさいませ。
 赤は百人で、白は五十人です。
 むかしから戦とは、数の勝負です。
 数の多い赤が、勝つに決まっています」
 しかし竹千代は、首を振って言いました。
「いいや。勝つのは白だ」
 竹千代が自信ありげに言うので、家来たちはびっくりです。
「竹千代さま、なぜ白が勝つとお思いですか?」
 すると竹千代は、家来たちに説明しました。
「確かに数は、赤が多い。
 だが、赤の組をよく見てみろ。
 赤の組は大勢という事に安心して、半分が遊んでいる。
 残りの半分も、さほど真剣に戦おうとはしていない。
 一方白の組は数が少ないため、みなが真剣に戦おうとしている。
 勝つのは、白の組だ」
「うーむ。そんなものでしょうか」
 竹千代の説明を聞いても、家来たちは首をかしげていました。
「合戦、はじめい!」
 合図のたいこが鳴りひびいて、石投げがはじまりました。
 すると、どうでしょう。
 数の少ない白の組がかかんに攻め込み、まさか負ける事はないとのんびりしていた赤の組が、バラバラと逃げ出したのです。
「なんと! 本当に白が勝った!」
 家来たちは、竹千代の物事を見定める力に感心しました。
「さすがは、竹千代さま。まだお小さいのに、よくものを見ておられる」
「まこと。このまま大きくなられれば、いつの日か天下を治めるかもしれん」
「いや、きっと天下を治めるだろう」
 家来たちの言葉通り、やがて竹千代は天下人となったのです。

「みなさんが知っている、あの織田信長に一歩近づく。それが、桶狭間の戦いだと思います。圧倒的に不利な状況にありながら、どこに勝機を見いだすのか?また、松平元康がどのような決断を下すのかも気になるところです」(染谷将太)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1269494231162327040

2.「桶狭間の戦い」(『麒麟がくる』Ver.)

★「桶狭間の戦い」の勝因
①先陣が戻ってこなかったこと。(大高城に兵糧を入れ、丸根砦を攻めた先陣・岡崎衆(大将:松平元康)は大高城に入って動かず、鷲津砦を攻めた先陣・遠江衆(大将:朝比奈泰朝)は、鷲津砦で乱取りをしていていた。)
②実は兵力差がそれほど無かったこと。
 今川軍総勢20000人─14000人=今川本陣6000人
 ・駿府に残した兵(駿河州) 6000人
 ・鳴海城へ援軍(駿河州)  3000人
 ・鷲津砦攻め(遠江衆)   3000人
 ・丸根砦攻め(岡崎衆)   2000人
※さらに佐々政次・千秋季忠隊300人が、今川軍の先陣を襲うと、今川義元は、本陣から1000人送ったので、今川本陣は6000-1000=5000人となった。
 織田軍総勢3000人─佐々政次・千秋季忠隊300人=2700人
 ・清須城などから               500人
 ・善照寺の兵と丸根、鷲津砦の生き残り   2500人
※「桶狭間の戦い」とは、今川軍5000人対織田軍2700人の戦いであった。

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織田信長は、清須城から出陣し、高所にある善照寺砦を本陣として軍議後、桶狭間山からは死角になって見えない低所の中島砦に移った。そして、佐々&千秋隊(ドラマでは佐々隊)300人を今川先陣に向けて放った。
今川義元は、沓掛城から出陣し、見晴らしの良い桶狭間山に本陣を置き、昼食をとっていた。
●「見晴らしが良い」という事は・・・
 ①木などの遮蔽物が無く、西の善照寺砦の織田信長がよく見える。
  ただし、善照寺砦の織田信長からもよく見られる。
 ②木などの遮蔽物が無く、西からの暴風はまともに受ける。
今川義元は、昼食後、大髙城へ向かう予定であったが、西から暴風が吹いてきたので、急遽、桶狭間山の東麓の窪地(田楽窪。ドラマでは巨岩(雨宿り岩?)の岩影)に避難した。
織田信長は、坊主山などの山際(山裾)を、西からの暴風を背に受けて東へ移動し、善照寺砦から見た今川本陣(桶狭間山)へ行ったが、誰もいなかった。「塗輿を探せ」と号令し、東麓「桶狭間古戦場」で見つけ、「東へ」と号令して、今川義元を討った。
織田信長の勝因は、「熱田の神風」と呼ばれる西風であった。また、素早い行動の信長軍は「疾風陣」、織田信長は「雨将軍」と呼ばれるようになる。

★「桶狭間の戦い」(時系列)

午前4時:先陣・岡崎衆が丸根砦を、先陣・遠江衆が鷲津砦を、攻撃開始。
午前8時:丸根、鷲津の両砦、陥落。
午前9時:織田信長、清須城から出陣。
午前10時:織田信長、善照寺砦(信長本陣)に着陣。
午前10時半:岡崎衆、大高城入り。鳴海城への出陣要請を無視。
      遠江衆は、鳴海村で「乱取り」(略奪)を開始。
午前11時:今川義元は桶狭間山(義元本陣)で昼食。
午前11時半:佐々政次が300人で今川先陣に向け出陣。
午後1時:織田信長、善照寺砦から桶狭間山へ向け出陣。
午後1時半:大高城の先陣・岡崎衆、桶狭間山への出陣を拒否。
午後2時:桶狭間(田楽窪)にて今川義元、討死。

3.今回のあらすじ


(1)大高城にて

 春次(菊丸)は、松平元康に「今川ある限り三河には陽が当たらぬ。今川義元を討て」と頼むが、松平元康は、「そうすれば一生、裏切り者と言われるし、そもそも兵数に差があり、今川を討てない。今川の命令通り、丸根砦を攻撃する」と断った。

(2)午前4時:丸根砦襲撃

「忍者が忍び込んで放火」というのが今川軍の戦法であるらしい。(この後、鳴海城の岡部元信が、この戦法で刈谷城を落としている。)
松平元康が丸根砦を攻めた=松平元康の調略に失敗した織田信長は、家臣に「篭城する」と言っておいて策を練った。
 ──もしかして、今川義元の兵数は、実は少ないのではないか?
 ──梁田政綱、すぐに今川軍の兵数を調べよ。善照寺砦で会おう。
 ──篭城は嘘じゃ。清須に今川のスパイがおるかもしれんのでの。

(3)午前9時:織田信長、清須城から出陣。

太田牛一『信長公記』によれば、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と『敦盛』の一節を謡いながら舞ったという。(従来のドラマでは、帰蝶が鼓をうつ名場面です。)

※NHK『麒麟がくる』トリセツ
「信長が清須城で戦況報告を受け「籠城する」と家臣に告げたあと思案しながらうたったのは、幸若舞「敦盛」の一節でした。織田信長の一代記である史料「信長公記(しんちょうこうき)」でも、桶狭間へ出陣する前に信長が「幸若舞」の一節を舞ったと記されています。ちなみに幸若舞は、能と並んで戦国時代の武将に愛好された芸能で、その中でも一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実を題材にした「敦盛」は特に好まれていたそうです。劇中で信長役の染谷将太さんが口ずさんだ「敦盛」は、番組で芸能考証・指導を担当されている友吉鶴心さんの指導によるものです。」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/21.html

〽死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語り起こすよの。
「人が死ぬことは決まっている。死ぬ前に何を成し遂げようか。後世まで、人が語り継ぐ何かを」の意。

 織田信長は、「桶狭間の戦い」前にこの歌を常に謡っていたが、桶狭間で今川義元を倒してからは1度も謡わなかったという。(確かに、「海道一の弓取り」(東海道で一番の武将)と言われた今川義元を倒したことは今でも語り継がれ、こうしてドラマ化されています。)

斉藤帰蝶「今川の大軍に勝てますか?」
織田信長「大軍? 今川勢は既に大軍ではないかもしれぬ」
斉藤帰蝶「もし大軍なら?」
織田信長「わしは死ぬ。『死のうは一定』。いつか人は死ぬ」
死を覚悟した織田信長は、生駒吉乃に生ませた長男・奇妙丸を呼び寄せており、帰蝶に紹介した。
織田信長「わしが死んだら、あの子を育ててくれ。そなたに預ける。わしは、この10年、そなたを頼りにしてきた。今もそうじゃ。帰蝶、尾張の行末を頼む。・・・許せ」
最後に「さらばじゃ」と言わないところがいい。
この奇妙丸については、生母・生駒吉乃(きつの)の死後、帰蝶が養子にしたとか、実は帰蝶の妹の子だとか言われる。(この奇妙丸(織田信忠)は、本能寺で織田信長が討たれた後、二条城で討たれた。)

(4)午前9時半:明智光秀、清須城に到着

この時、織田信長はすでに出陣していた。
今川義元は、丸根、鷲津両砦が落ち、沓掛城から大高城への道の安全が確保されたとして、沓掛城から塗り輿に乗って大高城へ向かって出発した。

※NHK『麒麟がくる』トリセツ
桶狭間の戦いで今川義元は、馬ではなく「輿」に乗っていました。その塗り輿を目印に、織田勢に奇襲をかけられました。当時、輿は一部の限られた高貴な身分の者だけが使用を許される特別な乗用具で、義元が輿に乗ることができたのは、足利将軍家の分家であり親密な関係にあったため将軍家から「外出時に輿に乗ってよい」という特別許可をもらっていたからです。義元が輿に乗って尾張へ進軍したのは、織田家との家柄や格の違いを周辺に見せ威圧するための戦略的なパフォーマンスの意味もあったようです。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/21.html

※今川義元が輿に乗っているのは、沓掛城から出陣する時に落馬したからだそうです。(現在、沓掛城の横に乗馬クラブがあるのはそのため?)
※個人的には輿は無理。5月19日といえば、現在の6月。熱中症になる。
※実際は白馬に乗っており、「5月19日の夜、雨が降ると、白馬にまたがった今川義元の幽霊が桶狭間に現れる」そうです。

(5)午前10時半:岡崎衆、大高城入り。

松平元康は、駿府で望月東庵に、「将棋の負けは、岡崎(三河国)に帰ったら倍にして返す」と言っていた。今回、鵜殿長照から「今川義元が三河守(朝廷も認める三河国主)に就任した」と聞き、「もしかして岡崎に帰れないの? このまま駿府で今川義元の家臣を続けるの?」と疑心暗鬼になったところに、「今すぐ鳴海城へ加勢に行け」と命令されて、「岡崎衆は将棋の駒かよ!?」と怒りを覚えた。

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(6)午前11時:今川義元は桶狭間山(義元本陣)で昼食(酒宴)

地元民が槍舞を見せていたが、伝承では「田楽」。一説に豊臣秀吉が今川本陣へ送り込んだという。また、この辺は「槍舞」よりも「棒の手」(豊田市、尾張旭市、瀬戸市、長久手市などに伝わる棒や木太刀を使った武術的な奉納芸能(神事芸能))である。
https://www.city.owariasahi.lg.jp/kurasi/kyouiku/bunka/bunkazai/siteibunkazai.html
今川義元は「中島砦から(織田軍佐々隊)300人が出陣」と聞き、「鷲津砦を落とした朝比奈隊に攻めさせればよい」と言ったが、「朝比奈隊はまだ鷲津砦にいる。乱取り(死んだ兵士から甲冑や武器を奪うこと)をしている」と聞き、本陣から1000人を派遣した。

今川義元が「乱取り」に切れていたのは、1年前に「狼藉(乱取り)あるまじき(禁止)」命令を出していたからである。今川軍は、国衆の寄せ集めで、指示が1年経っても徹底できていなかったのである。

※「今川家戦場定書」(松林寺文書)
 定
一、兵糧并飼馬料、着陣之日より可為下向事
一、出勢之日次、無相違令出立、奉行次第可守其旨事
一、喧嘩口論仕立候者、双方其罪遁間鋪事
一、追立夫、押買、狼藉有間敷事
一、奉公人先主江暇を不乞主取仕候者、見付次第当主人江相届、其上を以而、急度申付可、又届有之而、奉公人を逃候者、当主人可為越度事
一、城囲時、兼而相定攻手之外、一切停止之事
一、合戦出会、先陣後陣之儀、奉行之可守下知事
  以上 永禄二年三月廿日       治部大輔

※道家祖看『道家祖看記』
星崎面に控へたる佐々下野守、300余りにて、6万余騎の押さへを仕り候者、信長に出迎ひ、「某、1人なり共、今川と組み、打死せん」と巧み申すに、さても妙なる御出也。「某、命を捨て候はば、今日の合戦に御勝ち候事、必定なり。今日、天下分け目の合戦是也。天下を治め給ひ候時、弟・内蔵佐、我等倅を御見捨てさせ給はで」とて、「我々は東向きに、今川旗本へ乱れ入るべし。殿は、脇槍に御向かひ、鉄砲、弓も打ち捨て、只無体に打ちて掛からせ給ひ候」とて、押し向かふ。義元、油断して有る所へ、350計、打ち殺したり。「案の如く、本陣に喧嘩出来たり」とて、6万余騎の者共、騒ぎ立つ所へ、信長、2000余りにて、「1人も逃さじ」とて、喚(をめ)き叫んで大音を挙げて切って懸かり給ふ。一支えも支へずして、とっと敗軍、義元首を毛利新助取る。
【大意】織田信長が清須城から出陣し、熱田神宮を経て「星崎表」(「熱田表」とも)を通った時、佐々政次が待っていて、「今日は天下分け目の戦いです。私は殿のために命を捨てて、今川本陣に突入しますので、殿は、横槍をお入れ下さい。なお、殿が天下を取られた時には、弟・成政と倅・清蔵を取り立て下さい」と言葉巧みに(織田信長をおだてながら)申し上げた。そして、今川本陣に350人で突入して討ち取られた。今川軍が喜んで油断していた時、織田信長は2000人で今川本陣に突入し、今川義元を討ち取った。

「今川本陣(桶狭間山)の兵が1000人減った。残りは5000余りかと」
と聞いた織田信長は、
「よし、それならやれる」
と喜んだ。
「狙うは義元の首1つ。義元の居場所は塗り輿が目印じゃ。出陣~!」
午後1時、織田信長、善照寺砦から桶狭間山へ向け出陣しようとした時、暴風雨となった。

※これは今川義元の判断ミスですね。酔っていたのでしょうか? 1000人の兵は、本陣からではなく、鳴海城から出せばよいのです。ちなみに、史実とは時系列が異なります。史実は、次の順。
・佐々隊が出陣(実は別ルートで信長本隊も出陣)
・物見の石川隊が佐々隊を見つけて鳴海村で討つ。
・本陣に届けられた佐々政次の首を見た今川義元は酒宴を始めた。
・今川軍による鳴海村での乱取りが始まった。
・今川軍の油断を突いて、信長本隊が今川本陣を攻撃
△乱取りは、古文書にあるように鳴海村ではなく、ドラマのように鷲津砦でしょうね。鳴海村は今川領で、鳴海城に年貢米を納めていました。(桶狭間村は織田方の小川水野氏の家臣の領地で、大高村は織田方の大高水野氏の領地で、ぽつんと大高城のみ今川氏(鵜殿長照)の城。)

(7)午後1時:織田信長、善照寺砦から桶狭間山へ向け出陣

今川本陣は、見晴らしの良い桶狭間山の西斜面に西向きに(西の善照寺砦に向けて)設営されていたといいます。暴風(実際は暴風雨で、霰(あられ)とも、雹(ひょう)とも)は西から東へと吹いたので、今川本陣を直撃しました。この暴風雨を避けるため、今川義元は、桶狭間山の西麓に移動したようです。
 織田信長は、桶狭間山中を、今川義元の塗り輿を探しながら移動し、田楽窪にあるのを見つけると、山の斜面を駆け下りて今川義元を襲いました。

(8)午後2時:桶狭間(田楽窪)にて今川義元、討死。

今川義元「いかがした?」
近習「近くでいさかいがあったようでございます。見て参ります」
(ドラマでは最初に弓を射ていました(射手の1人は太田牛一?)が、史実では鉄砲。今川軍は呑気にも「落雷」だと思ったそうです。次に織田軍が攻めると、今川軍は呑気にも「仲間同士の喧嘩(いさかい)」が始まったと思ったそうです。)
今川義元を討ったのは毛利新介。

今川義元を討った織田信長は、その日の内に清須城へ戻った。
「織田軍のダメージは大きくて、今川軍を追撃できなかった」と言うが、「早く清須城へ帰りたかった」のであろう。「早く帰りたい」理由は、ドラマ的には「早く帰蝶に褒めてもらいたいから」であるが、実際は、清須を空にして美濃国の斉藤義竜に襲われるのを恐れたのであろう。

※織田信長は、家臣たちに「篭城する」と言っておいて、その日の早朝、突然、出陣した。前の日から「出陣する」と言っていたら、美濃国のスパイに聞かれ、清須城は「桶狭間の戦い」の間に美濃衆に襲われていたであろう。(ドラマではナレ死した斉藤義竜ですが、実はまだ生きています。)

<ラストシーン>

●織田信長:明智光秀の「美濃の次は?」の問いに微笑んで去っていく。
●明智光秀:笑顔で馬に乗って越前国へ帰国。
●松平元康:喜ぶでも、悲しむでもなく、深刻な顔。

織田信長が勝って、「おめでとう」と言いたい人が、「家臣にして欲しい」人が次々と清須城へ向かったと思われるが、日本一早く織田信長に会った武将は明智光秀であった。織田信長は水を所望した。斉藤道三の毒茶でも、織田信勝の白山の霊水でもない、水を。
 明智光秀が祝辞を述べると、織田信長は、「褒めてくれるのか?」と喜び、「また会おう」と言って騎乗の人となった。明智光秀は、「次は何する?」と聞いた。今回の織田信長は、攻めてきた今川義元を討っただけ=降りかかる火の粉を払っただけであり、普通の人は次のことなど考えてはいない。織田信長のすごい所は、「帰蝶の故郷、美濃国をとる」と、次のことを考えていたことである。明智光秀が「その次は?」と重ねて聞くと、先のことは考えていなかったのか、「尾張&美濃の国主になることが最終目標で、その先はない」と考えていたのか、微笑んだだけであった。ここで「大きな国を作ること」「麒麟を呼ぶこと」と答えていたら、明智光秀は、「家臣にして欲しい」と頼んでいたであろう。
 明智光秀は、自分の策が失敗したにも関わらず、笑顔で越前国へ帰っていった。「勝った、勝った、信長様が勝った!」「さすが道三様。織田信長はすごい人でした!」と、喜びと興奮に満ちた笑顔であった。明智光秀は、「帰蝶の故郷、美濃国をとる」が「明智光秀の故郷、美濃国をとる」と同義であることに気づいていないようです。気づいていれば「明智郷をもらえるかも?」と考えて、「家臣にして欲しい」と頼んでいたことでしょう。
 「桶狭間の戦い」は、松平元康が裏切って、背後から今川本陣を突いていれば、簡単に勝てた合戦でした。(この意味では、明智光秀の策は正解でした。松平元康を調略できなかったので、失敗しただけ。)
 仕方なく、織田信長は、明智光秀にも、帰蝶にも頼らず、父・織田信秀の言葉を思い出しつつ、自分の頭で「今川軍の兵数は少ない」と考え、思い切って出陣した。これは「無謀に近い賭け」でした。(斎藤道三が数珠の珠の数を明智光秀と斉藤高政に尋ねた話を思い出す。戦では、敵兵の数の把握が肝要である。)
帰蝶「十兵衛、よう参った。だが、来るのが遅い。会(お)うて色々知恵を借りたいと思うていたが、殿は既に出陣なされた。もはや打つ手は無い」
 松平元康が裏切らなかったので、次の手を、織田信長は明智光秀や帰蝶に頼らず、『敦盛』を舞いながら自分の頭で考え、出陣した。松平元康は、織田信長という「自分の頭で考える戦国モンスターの生みの親」であると言える。

「今川の家臣に自分たちが軽んじられていると感じ、桶狭間への出陣を拒否。演じながら感じたのもシンプルに“怒り”でした。一方、今川義元を倒した信長に対しては、尊敬と畏怖、親しみと憎しみなどが入り交じった、ある種の不気味さを感じているかもしれません」(風間俊介)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1269599206374850570

※天下の御意見番・大久保彦左衛門の『三河物語』には、軍議で物見の石川(佐々政次を討った人物)が「織田軍は5000人」と言うと、笑われ、「あなた方は山の上から見ているので、実際よりも少なく見えるのだ」と反論する場面があります。(『三河物語』では、「桶狭間の戦い」の敗因を長評定としています。長評定の最中に、織田軍は次々と山を登る・・・。)

※大久保彦左衛門忠教『三河物語』
駿河衆、是(これ)を見て、石河六左衛門と申す者を呼び出しける。彼、六左衛門と申す者は、大高(おほかど)の者にて、伊田合戦の時も面(おもて)を十文字に切り割られ、首を半分切られ、身の内に続きたる処も無く疵を持ちたる者なるを呼びて云ひけるは、「此敵は、武者を持ちたるか。又、持たざるか」と云ふ。「各々の仰せに及ばず、あれ程若やぎて見える敵の武者を持ちぬ事哉候はん歟(か)。敵は武者を一倍持ちたり」と申す。「然らば、敵の人数は何(いか)程有るべくぞ」「敵の人数は内ばを取りて、五千も有るべし」と云ふ。その時、各、笑ひて云ふ。「何とて五千は有るべしぞ」と云ふ。その時、六左衛門、打ち笑ひて云ふ。「方々達は、人数の積もりは、御存知無しと見へたり。かさに有る敵を下より見上げて見る時は、少勢をも大勢に見るもの成るに有り。敵をかさより見をろして見れば、大勢をも少勢に見るものにて候。方々達の積もり、何として五千より内と仰せられ候哉。惣別、か様の処の良評定は、能き事は出来ぜざるものに候に、棒山を責めん歟、責め間敷き歟との評定、久敷く、又、城の替番の詮議、久敷き候間、ふつつと能き事、有る間敷」と申しつるに違はず、「是え押し寄せ給ふと、その儘、取りあへずに、棒山を責め落とさせ給ひて、番手を早く入れ替え給ひて、引かせ給はで、かなはざる処を、余りにをもくれて、てをばく候間、ふつつと能き事、有る間敷。早々帰らせ給え」と六左衛門、申しければ、急ぎ早めて行く処に、徒歩(かち)者は、早くも五人、三人づつ山え上がるを見て、我先にと退く。

※松平元康が寝返らなかったので、明智光秀の策は失敗と言えますが、大高城から一歩も出なかったので、半分は成功? 『信長公記』によれば、今川義元は、本陣からどんどん東へ、東へと逃げていったそうです。織田軍は、やっと追いついて討ったと。(西から織田軍、東から松平軍と、挟み撃ちにしていたら、もっと短時間で討てたでしょう。)
『三河物語』において、著者・大久保忠教は、「然ると申すに、 元康の臀除(しりはらひ)を成され候ものならば、か程の事は有る間敷に、大高の城の番手を申し付けられし事こそ、義元の運命なり」(松平元康に、「大高城で休んでいろ」ではなく、「殿(しんがり。撤退軍の最後尾)を務めろ」と命令していたら、今川義元は討たれなかっただろう)と、岡崎衆の強さを自慢しています。

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★幸若舞『敦盛』

思へばこの世は常の住み家にあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり。人間(にんげん)五十年、化天(けてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり。一度(ひとたび)生(しょう)を享(うけ)け、滅(めっ)せぬもののあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人間界の50年は、下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ(短い)」という意味で、「人の一生(寿命)は50年」と言っているわけではない。

人間(じんかん/にんげん):「人の世」の意。
化天(けてん/げてん(下天)):「化天」は、六欲天の第五位・世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たる。『敦盛』では「化天」であるが、織田信長は「下天」と変えて謡っていたという。

太田牛一『信長公記』によれば、「桶狭間の戦い」当日の朝、織田信長は、『敦盛』のこの一節を謡いながら(3度?)舞い、「(出陣の合図の)陣貝(法螺貝)を吹け」「具足を持ってこい」と命令し、立ったまま湯漬けを食べ、甲冑を身に着けて出陣したという。

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と候て、「螺ふけ」「具足よこせ」と仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。(太田牛一『信長公記』)

★今川義元、三河守就任


今川義元の「三河守」任官については、柳原蔵人頭(右大弁)淳光(瑞光院)の備忘録『瑞光院記』に記されていると言うが、現存しない。関東大震災で焼けたのではないかという。ただ、紛失前に『史料稿本』(『大日本史料』の原稿)に転記されている。

永禄3年5月8日 宣旨
 治部大輔源義元
  宜任参河守
   蔵人頭
永禄3年5月8日 宣旨
 従5位下源氏実
  宜任治部大輔
   蔵人頭
  口宣2枚
  5月8日右大弁
進上廣橋大納言殿

※廣橋大納言:広橋兼秀(1506-1567)
※『史料稿本』
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1560/13-2-3/4/0063?m=all&s=0063

 今川義元が三河守に任じられたので、松平元康は、今川義元に対して不信感(「このまま駿府に定住し、岡崎に帰られないのではないか?」という疑問)を持ったと言う(松平元康寝返り説)が、朝廷が、よかれと思って勝手に任命したことで、今川義元にとっては、「三河守」は、現在名乗っている「治部大輔」よりレベルが低いことから、不満だったという。また、今回の今川義元の出陣は、本人の三河守任官と、嫡男・氏真(朝廷の文書では、なぜかどれも「氏実」)叙位のお礼参り(「上洛説」)だともいう。

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