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小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第6回【光秀と足利義昭・細川藤孝との接点】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第6回【光秀と足利義昭・細川藤孝との接点】

室町幕府13代将軍・足利義輝は三好三人衆によって殺害。義輝の家臣・細川藤孝は次期将軍候補の覚慶(のちの足利義昭)を幽閉されていた寺から救い、2人は各地を転々として越前・朝倉氏のもとへ逃げ込みます。そこで出会ったのが光秀でした。今回は、当時の資料をもとに細川藤孝と光秀がどのような関係にあったのか、また、その関係がどう変化したか、についてお話し頂きます。

要旨

三好長慶(ながよし):細川晴元家臣→天下人「三好政権」
  ・三好氏の本貫地:阿波国三好郡
  ・三好氏の本拠地:阿波国守護所・勝瑞城(しょうずいじょう)
   ↓ 永禄7年(1564年)7月4日死没
三好三人衆:三好長逸(ながやす)&三好政康(釣竿斎宗渭)&岩成友通
   ↓
・「永禄の変」(永禄8年(1565年)5月19日)
 ・室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝が「三好三人衆」に討たれる。
 ・足利義輝:旧名:義藤。抜刀将軍、剣豪将軍。
   ↓
 ・覚慶:足利義輝の弟。興福寺一乗院門跡。覚慶→足利義秋→義昭。

    <義昭動座>

    興福寺(奈良県奈良市登大路町)
     ↓・永禄8年(1565年)7月28日
    元奉公衆・和田惟政の居城・和田城(滋賀県甲賀市甲賀町和田)
     ↓・江南の六角義賢が三好三人衆寄りになる。
    矢島御所(滋賀県守山市矢島町)
     ↓・上杉謙信らに上洛を促す御内書を出す。
    妹婿・武田義統を頼り若狭国小浜
     ↓・永禄9年(1566年)9月8日
    越前国敦賀
     ↓・永禄10年(1567年)11月21日
    越前国一乗谷御所(安養寺)
     ↓・明智光秀、盟友・細川藤孝と出会う。
    美濃国立政寺御座所(正法軒。岐阜県岐阜市西荘)

※「永禄の変」は5月19日。足利義昭は、すぐに興福寺を脱出したのではなく、2ヶ月後の7月28日。その後、敦賀入りしたのは9月8日であるので、8月の1ヶ月間で、和田、矢島、小浜と3回も動座したことになる。
※ラジオでは、敦賀から一乗谷へ移ったのを「その年」と言っていたが、「翌年」の誤りである。足利義昭が一乗谷にいたのは、約9ヶ月である。
※米田貞能は、永禄9年10月20日、坂本(滋賀県大津市)で(矢島御所で書いたが、出されなかった)御内書の裏に、田中城(滋賀県高島市安曇川町田中)にいた明智光秀の口伝『針薬方』を書き写している。明智光秀は、矢島御所の足利義昭の警固で、田中城に詰めていた?

★史料1:江村専斉『老人雑話』「明智始め細川幽斎の臣也」
★史料2:『多聞院日記』「細川の兵部太夫が中間にありしを引立」←史実ではなく、噂では?
★史料3:ルイス・フロイス『日本史』「信長の治世の初期には公方様の邸の一貴人・兵部太夫と称する人に奉仕していた」

結論:明智光秀は、細川藤孝のパシリであったので、家臣に見えたのでは?
   ↓
その後の2人
①話し合って、足利義昭の上洛を、朝倉義景ではなく、織田信長に頼むことを決定!
・永禄11年(1568年)6月25日の愛妾・小宰相との子・阿君丸(くまぎみまる。)の死のショックから立ち直れない朝倉義景は、仕方なく黙認。
・永禄11年(1568年)7月25日、足利義昭、立政寺入り。
②明智光秀は織田信長の家臣となったが、細川藤孝は足利義昭の家臣であり続けたため、細川藤孝が織田信長の家臣となった時には、既に出世していた明智光秀の与力大名(組下大名)にされた。主従逆転!

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感想

明智光秀は、
「永禄11年(1568年)に上洛し、天正10年(1582年)に死んだ」
というのは、まず間違いない。この1582-1568=14年間を「後半生」「有史以後」と呼ぶ。享年が55だとすると、55-14=41年間を「前半生」「有史以前」と呼ぶ。
「前半生(41年間)、ずっと美濃国にいた」
とされてきたが、新史料『遊行三十一祖京畿御修行記』の発見により、
「10年間、越前国(長崎称念寺の門前)に住んでいた」
ことが分かった(第5回参照)。また、後半生の彼の活動を見ると、
「京都に住んでいた時期があった」
としか考えられない。

 ──41年間のいつからいつまで、越前、京都に住んでいたのか?

「明智光秀の人生」は、
・第1期:誕生~元服
・第2期:元服~明智城落城
・第3期:明智城落城~織田信長に仕官
・第4期:織田信長に仕官~死去
に分けられる。
 今回のテーマである「細川藤孝との出会い」は、「第3期に越前国で」というが、本当にそうであろうか? 小和田氏は否定されたが、「京都で出会い、仕えていた」のではないか? 「明智光秀の人生」、特に前半生(第1~3期)については諸説あるが、今回は、
A.越前国(長崎称念寺)の伝承に基づく「明智光秀の人生」
 【参考文献】高尾察誠『改定 明智光秀公と時衆・称念寺』
B.美濃国(岐阜県恵那市明智町)の伝承に基づく「明智光秀の人生」
 【参考文献】籠橋一貴『明智光秀 東美濃物語』
を取り上げてみる。

A.越前国(長崎称念寺)の伝承に基づく「明智光秀の人生」

・第1期:長崎称念寺の門前に10ヵ年居住する。
・第2期:上洛し、細川藤孝に仕えたが、出奔して牢人となる。
・第3期:全国遍歴後、越前国へ渡り、東大味に居住する。
・第4期:織田信長に仕官~死去

B.美濃国(岐阜県恵那市明智町)の伝承に基づく「明智光秀の人生」

・第1期&第2期:美濃国で過ごす。
・第3期:上洛し、細川藤孝に仕えたが、出奔して越前国へ渡る。
・第4期:織田信長に仕官~死去

まとめ:明智光秀と細川藤孝の出会いについて、通説では「第3期に越前国で」であるが、越前国(長崎称念寺)の伝承では「第2期に京都で」であり、美濃国(岐阜県恵那市明智町)の伝承では、「第3期に京都で」である。

明智光秀の研究は進んできている。
たとえば、室町幕府の奉公衆(京都に住む幕府直属の武士団)の名簿に「明智」が載っており(第1回参照)、これまでは、「美濃明智家(通字は「頼」)が本家で、幕府奉公衆の京都明智家(通字は「光」)は分家」とされてきたが、「京都明智家こそが本家」とする新説も出てきている。

「京都の明智家が本家」とすると、明智光秀の在京時代には、接触があったと想像される。そもそも「光秀」という名からは、通字が「光」である京都明智一族ではないかと思われる。

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