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明智城が落城し、明智光秀はどこへ逃げたか?

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●美濃国勢力イメージ図(黄色:斎藤氏/水色:遠山氏/緑:東氏)

明智光秀「尾張を目指す。平地を避け、山伝いに進めば、追手の目も届かぬはず」
駒「高政様は、尾張へ続く道に関を設け、見張りを増やしています。尾張は無理です」
菊丸「手薄なのは北です」

:明智氏と仲の良い遠山領
西:斉藤領を通って近江国へ
:尾張国~三河国
:斎藤領、東領を通り、油坂を越えて越前国へ

西から攻められているので、意識的には、逆の東に逃げたいです。東には仲の良い遠山氏がいます。実際、恵那郡の伝承では、明智光秀が逃げてきて、遠山利景(一説に明智光安の次男)と共に上洛して、細川藤孝に仕えたことになっています。

西へは逃げたくないですね。近江国の六角氏のもとには、土岐頼芸が逃げ込んでいるし、明智光秀は六角氏に仕えていたことがあるそうですが、落ち武者狩りは怖いよ。(実際、明智光秀は、落ち武者狩りで落命してる。)

愛菊丸(後の明智定政)のように奥三河へ逃げる手もあるけど、愛菊丸の場合は、母の実家が奥三河にあったので、奥三河に逃げたのであって・・・奥三河の知り合いといえば、三宅弥平次(後の明智左馬助)の三宅氏がいるけど、三宅氏は織田氏と敵対しているので駄目。三河の帰蝶を頼るのが良いかな。

菊丸が「逃げるなら北」と言うので、とりあえず北に逃げたが、北の越前国へ逃げても知り合いはおらず、路頭に迷うだけ。ところが、突然、伊呂波太夫(実は近衛家で育てられた娘)が現れ、「帰蝶に頼まれた。「近衛の姫君」(近衛稙家の娘)が朝倉義景の継室になっていて、朝倉義景なら匿ってくれる」というのである。史実がはっきりしていても理由(動機)が分からないことがある。そういう時、ドラマや小説では「架空の人物の助言」という奥の手が使えるから便利である。

・冠山峠(岐阜県揖斐郡揖斐川町塚〜福井県今立郡池田町楢俣)
・高倉峠(岐阜県揖斐郡揖斐川町塚〜福井県南条郡南越前町瀬戸)
・温見峠(岐阜県本巣市根尾大河原〜福井県大野市温見)
・拝星峠(岐阜県本巣市根尾大河原〜福井県大野市下秋生)
・油坂峠(岐阜県郡上市白鳥町向小駄良〜福井県大野市東市布)
・橋立峠(岐阜県郡上郡白鳥町石徹白〜福井県大野市上打波)

美濃国と越前国の間には6つの峠がある。『明智軍記』には、明智光秀は油坂峠を越え、斉藤竜興は拝星峠(日本史通には、幕末に水戸藩の天狗党が越えた峠として知られる峠)を越えて越前入りしたとある。

さて、史実はというと、番組最後の「紀行」の
「江戸時代の記録では、明智光秀は一時期、越前の地に身を寄せた、と語られています」
という程度しか分かっていない。
https://www.nhk.or.jp/kirin/journey/18.html

江戸時代に書かれた本の記述をまとめると、
「越前国の長崎称念寺に妻子を預け、全国武者修行をして6年後に帰ってくると(6年間の旅費や生活費は、妻・煕子が何度も髪を売って捻出)、朝倉義景に仕え、東大味に住んで、朝倉街道の関守をした」
となる。しかし、朝倉義景の家臣一覧に「明智」の名がないので、学者は信用していなかった。ところが、『遊行31祖京畿後修行記』という本(業務日誌)が発見され、「越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に10ヶ年居住」と書かれていたので、信用する学者も出てきたが、長崎称念寺に伝わる伝承では「元服前の10年間、長崎称念寺の門前に住み、元服すると上洛して、細川藤孝に仕えた」ことになっており、明智城落城後の明智光秀の動向は、「未だに不明である」と言わざるを得ない。
別記事↓に、よく知られる5つの伝承を書いておいた。この伝承の中に史実があるかもしれないし、ないかもしれない。
https://note.com/ryouko/n/n2d18664cc251

★明智城の落城=弘治2年(1556年)9月
この時、
明智光秀(享禄元年(1528年)生まれ)=29歳
朝倉義景(天文2年(1533年)生まれ)=24歳
織田信長(天文3年(1534年)生まれ)=23歳

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