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明智城は4度落ちた?

1回目 明智初代頼重の明智城(恵那市明智町)が落とされる。

●暦応2年(1339年)2月18日付「足利直義下文」
下 土岐彦九郎頼重
 可令早領知美濃国妻木郷
 多藝庄内多藝嶋榛木地頭
   職事
右任祖父土岐伯耆守頼貞
法師法名存孝今月十七日譲状可令
知行之状如件以下
 暦應二年二月十八日
     源朝臣(花押)

【解説】土岐頼貞(暦応2年2月22日没)は、死の直前の2月17日、子・土岐頼基は早世していたので、孫・土岐頼重に家督を譲り、足利直義(1306-1352。足利尊氏の同母弟)が、
・美濃国妻木郷(岐阜県土岐市妻木町)
・美濃国多芸庄内の多芸郡多芸島村(岐阜県大垣市多芸島)
・美濃国榛木(飯木、飯之木、春木)村(岐阜県養老郡養老町飯ノ木)
の地頭職を継ぐことを安堵した。
 この時の明智初代頼重は、まだ「土岐彦九郎頼重」であり、明智郷に住して「明智彦九郎頼重」と名乗るのは、まだ先の話である。その先の話をすれば、明智頼重は、文和4年(1355年)に家督を明智頼篤に譲るが、明徳元年(1390年)足利第3代将軍義満(在職1368-1395)安堵状では、可児郡22郷、土岐郡15郷、多芸郡13郷の領主に成長している(明智家は、宗家・土岐家と比べても遜色ない)事が分かる。

●観応元年(1350年)1月30日付「足利尊氏書状」
すでにはりまの國にうちこえて、ぢんをとる所なり。ゑちごの守中國のかたきのこらずうちちらして、ひとつになりて候ほどに、やがてきやうとへつめ候へく候。かさねてぢやう日をきかれ候て、そなたよりもつめられ候へく候。そなたの事ハいかうたのミ入て候。すべてこのごろはそらごとをかたきのかたにとくり候て、ひろう候なる、心へられ候へ。いそぎしよハうよりつめあはせ候て、兵衛督入道直義をちうバちし候へく候。そのむねを心へられ候へ。猶々そなたの事ハたのミ入て候。
 正月卅日      (判)
   あけちひこ九郎殿
   ときのまご三郎殿

【解説】足利初代征夷大将軍尊氏(在職1338-1358)は、「観応の擾乱」(1349-1352)の時、明智彦九郎頼重と土岐孫三郎に「そなたの事は以降頼み入りて候。(中略)猶々そなたの事は頼み入りて候」と加勢を求める書状を出している。(分家「土岐明智氏」と本家「土岐氏」は、分かれたばかりで、対等に扱われていたことが分かる。)
 足利尊氏は、土岐頼重に加勢してもらうために恵那郡明智郷を与えたので、土岐頼重は移住して明智城を築き、「明智彦九郎頼重」と名乗ったのであるが、これは、「成功報酬」「約束手形」であり、土地の所有を主張した遠山氏が明智城を落とした。明智頼重は、土岐氏の本拠地に戻り、土岐氏居館を見下ろす高山に長山城を築いた。(一説に伯父・土岐長山頼清が築いた長山城に入った。)以後、戦国時代に落城するまで、土岐市の長山城が明智氏の居城となった。

2回目 天文21年(1552年)6月 長山城(土岐市)落城

天文21年(1552年)6月、長山城主・明智定明は、弟・明智定衡に遠山に呼び出されて暗殺された。同時に御嵩城主・小栗教久が長山城を攻め落とし、明智氏は滅亡した。
と思われたが、愛菊丸(2歳)が逃げており、「土岐家文書」を持ち出した母の実家(奥三河)で育てられ、徳川家康に仕えると、「明智定政」と名乗って明智家を再興するが、徳川家康に「土岐家を再興せよ」と命じられて「土岐定政」と改名した。子孫は代々沼田藩主を務めたので、「土岐家文書」と呼ばれる土岐氏や明智氏に関する文書は群馬県沼田市にある。(2020年、500年(正確には468年)ぶりに土岐市に帰郷!)

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3回目 弘治2年(1556年)9月 長山城(可児市)落城

可児市柿田の柿田弥次郎は、兄・明智光綱が早世したので、幼い明智光秀(明智光綱の子)が元服するまで、後見人「明智兵庫頭光安」として、明智家の実質的な宗主となった。
 弘治2年(1556年)9月、居城・長山城(可児市)が東濃侵攻(美濃国平定)を目論む斉藤高政によって落とされ、明智氏は滅亡した。
と思われたが、明智光秀が逃げており、織田信長に仕えると、スピード出世して明智家を再興するが、本能寺で主君・織田信長を討ち、謀反人と呼ばれ、落ち延びた一族は、肩身が狭い思いをしているという。

4回目 天正2年(1574年)1月 明智城&明知城 落城

天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、遠山氏の明知城とその出城となっていた明智城(明智頼重が築いた城)を、15000人の大軍で襲撃した。明知城主・遠山一行は、500人でこれを防ぎ、織田信長に緊急事態の連絡をした。織田信長は、2月5日、奈良の多聞山城から呼び寄せた織田信忠&明智光秀と共に30000人で岐阜城を出陣したが、2月6日に明知城内で飯羽間右衛門(高遠友信)による謀反が起こり、武田軍に奪われたので、織田信長は、神篦城に河尻秀隆、小里城に池田恒興を残し、2月24日に岐阜城に帰城した。
 明知城主・遠山一行は、叔父・遠山利景(一説に明智光安の次男)と共に城を脱出し、遠山利景の妻の実家である奥三河に逃げた。
 天正3年(1575年)5月、織田信長は、「長篠の戦い」で武田勝頼を破った勢いで、武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、明知城主・遠山一行と遠山利景は、奪回した明知城に帰還した。この遠山氏の子孫には、名奉行「遠山の金さん」がいる。

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