D・B・サモは何者だ。

 D・B・サモは何者だ。それをこの場でやっても良いのだろうかという問いに対する答えを、私はまだ所有してはいない。結局のところ、私はこれをしっかりとした意識の中で書くことはできないので、今日も例外なく液体を体に流し込む。するとどこからか静止の声が聞こえてくるが、どうせ幻聴だろうと思い込んで無視をする。めまいの多い生活なので、地震が発生しても気づかない。危機感は苦味と共に昇華され、ついに私は自身の中に居るらしいD・B・サモについての思考を巡らせる。

■観測者。
「彼の好奇心を削ぐことはしない。また彼も、同様の手順を踏むことは絶対にしないだろう」大統領気取りの若者が口ずさむ。「どうしても酒が呑みたいって?」
 若者はにやけ顔を続けながらも、お気に入りの高級車の赤色のドアを片手でひょいと開ける。手慣れた動作で室内の換気を行うと、そのまま黒一色の車内に入り込む。小さな隙間に体を挟むようにして座席に腰を下ろすと、そのままドアを閉めて運転を開始する。
 夜の高速道路を無言で走る。その様はまさにスポーツ選手で、みなぎる力が熱を帯びていた。若者はふと自分のスーツが気になり出した。値段ではなく見た目で選んだスーツにはシワがいくつかあったが、それはむしろスーツの格好良さを際立てていた。車のバックミラーでそれを確認した若者は再び運転に集中し、それからお気に入りのバーにたどり着くまで、高速で過ぎてゆく道のアスファルトしか見ていなかった。

「D・B・サモを知っているか?」バーの店主は静かな口調だった。それはいつもよりも静寂で、静寂という煙の集合体なのではないかと思えてしまうほどだった。若者は頼んだウイスキーの小瓶をぐびぐびと飲みながら、真っ赤になった体の指で、同じく真っ赤になっている顔に触れながら考える。
「ううん。知らないな。貴族か何かか?」
「いいや。正直なところD・B・サモについて、何もわかってはない。正確な名前さえもね」
 店主はグラスを拭いていた。
「サモってのが名前じゃないのか?」
「それはいわゆるファミリーネームだ。DとB……すくなくともファーストネームであるDの方が何の略なのかを知りたい……」店主はすでに仕事を終えていた。少なくはないグラスの全てを完璧に綺麗に磨き上げた店主は、そのままカウンターの木目に両肘をつき、大きな手で頭を抱える。「ああっ、おそらくたい焼き屋を営んでいるというわけではないはずなんだ……」
「なんだよ。中毒者みたいな目ぇしやがって……」確かに店主の眼球はおそろしかった。眼窩から飛び出したいと言わんばかりに突き出し、何かを探すようにぎょろついている瞳は、双方で動きが一致していない。
「あああああっ、どうしてファミリーネームだけが公開されているんだっ! どうしてDとBなんだ! こっちは蛸だぞ!!」
「おい黙れよ! おれは山羊なんだよ!」若者は小さいグラスを後方に捨ててから怒鳴った。低い大声は店内に波紋のように広がっていき、しんと静まり返る頃には若者も店主も恥ずかしさしか感じていなかった。「……ああ、悪かった」若者は静かに席に座りなおした。
「で、そいつは何なんだ? 何をしたやつなんだ?」
「排水さ。正確には泥水にも近しいものではあるけれど」
「はあ? 誰も水銀なんて飲まないだろう?」
「でも飲むんだ。廃棄物よりもおいしそうにむさぼるって、誰もが言っているし、そもそも招待状にはそう書かれている……誰もが酒を呑むし、煙草も、薬物だって使ってしまう。そうしないと心が保てなくなって、いずれは考えることのできない獣か、膨らみ続ける風船になってしまう。それは嫌だから、どうしても逃れたいから、気づいている人間は水銀を飲むんだ……」
 店主はどちらかというと、すでに若者の獣臭さを認識してはいなかった。店主の目は虚ろで、口ぶりも溶けだしたアイスのようにまとまってはいなかった。そんな店主の飴色の頭の中にあるのは、自身が経営しているバーの風景ではなく、数年前に記者からもらった招待状の文面についてだった。

■D・B・サモは何者だ。
「よくお父さんが言っていたけれど、人間は倫理観を学んだ瞬間に敗北するんだ」
「ああ、お前の家に住んでいるクリスピーおじさんなら、確かにそんなことを言いだしそうだよ。はは」男は孤児の時代を思い出して、湯舟に浸かった際の全身に伝わる心地良さを感じていた。「じゅわって、気持ち良くなるんだあ……」
 島国に住まうサモという男がげっぷを繰り返し、ナギナタを特技としている青年は履歴の全てを焼却炉に投げ込んだ。投てきの末に手に残った鉱石と密偵を繰り返す誇り高き憲兵隊が、自身の個人的な軍港を放棄しながら万年筆を武器とした。「これを携帯しておけば、とりあえず二択問題になら立ち向かえる」優秀大佐は手癖で顎髭をひっぱる。
「いくつもの動物を引き連れている人間は、その獣の安心感からブリッジを繰り返してしまうという……」浪人を繰り返していた酒飲みのサモは、ついに都会へと足を踏み入れていた。サモの頭髪が無い頭の中にある脳では、つねにサモ好みな美少年が一列に並び、海老反りをしながら膨張した性器から精液を放出している映像が見えていた。美少年たちの一番大事な部位から白いアーチを描いて出ていく精液は、美しく、サモはその全てを飲み干したいと考えていた。
「まるで魚類じゃないか……」隣町の医者は呟きながら、サモの目の前で、サモのカルテを焼き消した。サモはどうしようもなくなって、すぐに部屋から逃げ出した。
 温かい音楽が流れている待合室に息を切らしながらたどり着いたサモに声をかけたのは、看護師の女だった。するとサモはその女の顔にビンタをお見舞いした。女の頬肉はぶるんと揺れ、その衝撃で女がつけていた眼鏡は顔面から吹き飛んだ。
「あの、これ落としましたよ」サモは地面に落下した眼鏡を拾い上げ、顔の右頬が腫れている女に差し出した。
「おれは階段を下りるとき、別に愉快にはならない」サモは驚くほどの冷徹だった。
「ああ驚いた……」サモの下半身はすでに尿で濡れていた。

 D・B・サモは必死になって階段を駆け上がる。すでに下半身の筋肉は悲鳴を上げており、いつ肉の繊維がはち切れてもおかしくはない。体の底から熱が這い上がって来る、むわっとした熱気。その不愉快極まりない高熱で満たされた体から発せられる大玉の汗は、現在サモが着ている半袖シャツと半ズボンを素肌に吸着させ、不快感を増幅させる。大きく開かれた口から漏れる荒い呼吸は、肺の中の熱い空気を吐き出すと同時に外の冷たい空気を一気に取り込むが、その冷気は肺の中を容赦なく突き刺し、サモの体を内側から痛めつける。
「彼の走りは脳に苦しささだけを与えている。まるでシャチのようだ」コメンテーターのふざけた嘲笑は、誰もが笑いものとしてとらえていた。
 サモは至極真面目であり、勤勉な性格だった。常に勇猛果敢な意思を、心臓の中に浮かばせていた。
「僕はただの小心者さ」サモは独りだった。しかしサモは強い意思を持っているので、たとえ給食の残りだけが取り柄な学校と対面したとしても、講師の顔が良いだけが利点な塾と対面しても、黒人を嫌う自称料理研究家と出会っても、難なく事柄をこなすことができた。
 D・B・サモは悪魔だ。誰かがいつでもそう言っている。まるで酒場においてもっとも相応しい話のネタとしての役割を永劫的に押し付けるように、味の無い灰色のガムをいつまでも噛み続ける。
 そしてサモはついに、自らが精神科医の世話になりたいという旨を母親に伝えた。しかし髪をドリルのようにしている母親は、小馬鹿にするような笑い声を出しながらサモを見た。「それが事実であるわけがないよ」
「どうしてだよ。母さん」
「金がかかるのよ。貴方は何もできないじゃない。……どうせ、父さんの不倫でデキた子よ……」
 サモは満身創痍の術しか知らなかった。裁判官の目で父親を見て、「そうなのかい? 父さん」と新聞の向こう側にあるはずの父親の顔に向かう。しかし父親はそれにかぶせるように、「いま俺が話したいのは、とある最高のガンマンについてだ」と悪態をつく。新聞を下ろすつもりはないらしく、明らかに同様している汗まみれ手で、次のページを開いていた。
 相手にされていないことを悟ったサモは、二人を血の臭いが漂う肉塊にしたいという欲求を抑えながら、静かに退室していった。

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