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限りなく透明に近い色


もし仮にこの世界を作った創造主の神がいるとするなら、神とは無色透明のエネルギーなはず。無色透明なエネルギーから様々な色が着色されていき世界はできている。

だから神の声を聞いたと、言葉で説明すればその段階で無色透明のエネルギーに自分の言葉で着色している。
教えにした段階で無色透明のエネルギーではなく、なんらかの着色がつく。
だから完璧な教えなどは、この世には存在しないと私は思う。

宗教も時が過ぎれば着色が強くなってくる。

キリスト教の教えは
限りなく透明に近い’ブルー’であり

仏教の教えは
限りなく透明に近い’イエロー’であり

イスラム教の教えは
限りなく透明に近い’レッド’である

しかし、
これは透明(神)に接触した、つまり悟った聖者や預言者や哲学者から発される言葉であって、世襲のように教えが引き継がれるにつれて、色は濃くなっていく。そもそも発言者自身も透明と接触しただけであって、その人格はなんらかの色は持つ。
するとそこには、青だ、黄色だ、赤だという意識が残り、対立を招く。

いくら透明に接した人間が修正を加えようとしても、原典は時間の経過とともに着色されており、その形を薄くすることはできない。時間の経過共に権威が色濃くついてるからである。
バッハの音楽は300年過ぎでも聴かれている。バッハの音楽には時の流れに打ち勝ってきた強さがある。それが権威を生む。
今流行ってる音楽が、百年先も聴かれるであろうか。決して権威という面では、バッハと対等に扱われることはないだろう。
ましてバッハの楽譜を再編して、バッハそのものが作り出した、として出すことは、不可能である。それには再編者の色が混じる。

濃くなった色を薄くしようとした場合
宗教は派閥を作り出すしかない。
キリスト教〇〇派
これは、’限りなく透明に近い水色’である。
しかし、この透明に近い水色も
時の経過につれて濃さが増し水色となっていく。

また自らのエゴで都合の良いように推定解釈をする派閥も多い。ここには透明などまるでない。
〇〇過激派武闘組織など
もうこれは、’極めて赤’であるように思える。

哲学や真理、目に見えない世界、
また人を通しての教えには必ず彩色された部分があるという自覚が必要である。

自分自身が青色に彩飾された人間であれば、世界は青に見えるし、青が正しく映る。
青こそが正義だとなる。
濃青の思想を身にかぶれば、青以外の思想など排斥するであろう。

世の中を正しく見渡すには
自分がどのような色眼鏡をつけて生きてるか知ることではないか。
そして生きてる限り、人は何かしらの色眼鏡をつけていて、薄くすることはできても、決して外すことはできない。

猫はただ猫として存在してるだけである。
私は、それに可愛いと着色してみている。
猫を見て恐ろしいと思う人だっている。

常に客観的に事実だけを把握しようとすれば
公園で猫を見かけた時、猫がいる、ただそれだけである。
それは、生きてることではなくもはや瞑想だ。

生きてる限り常に客観的にいることは難しい。なによりつまらない。

自分自身の姿形を猫や犬のような可愛い姿に、変えられないように、
自分を形成してきたあらゆる影響から逃れることはできない。

じぶん自身の色を受け入れ、
そして薄くしていくことは幸せにつながると思う。

色が濃ければ、他の色に気付けない鈍感だし
色が薄ければ、他の色が混じり気がつき、繊細になる。繊細さは時として生きづらさを生む。
しかし、繊細であること、純粋であることで世界は新鮮に見える。

年老いても、子供心のように景色の美しさに感動できるのは、繊細さなのだ。

そして物事の違和感を見抜くのも繊細さなのだ。

繊細さを抱えたまま世の中に溶け込むには
仮面(ペルソナ)がいる。
剥き出しにしては汚れてしまう。

世の中出会う人たちは、皆劇団員なのかもしれない。

演じ過ぎたら’本当の自分’なんてものを渇望して苦しくなる。

演じるとは生き抜くために必要な手段。
だけど与えられた役ではなく、作り上げる役だ。

正しいペルソナの作り方なんてのは
現代社会生き抜くためには、新しいことかもしれない。

そして表の仮面被りながら、陰ながら何か透明なものを信じ続けて生きること。
透明を信じていれば、透明に近づいていく。
それは自身の汚れを薄くしてくれる。

そんな生き方なら繊細さを守れるのだろうか。

太宰も、尾崎も、カートコバーンも

ちゃんと仮面を持っていたのか。
そして
真剣に無色透明な神に祈ったことあったのか。

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