昨年度3月26日に開催を予定していた沖縄特区は、急遽延期となっていましたが、5月28日に無事に開催されました。
唱えると「変わっている人」として見られてしまう。
Q 研修会などで新しい領解文を唱和する機会があっても、唱える人と唱えない人で分かれている。中央の研修会でも。今後、こうした唱えない人が中央から各地へ散らばっていく事に疑問を感じる。また、唱える人は少数。唱えると変わった人に見られる空気がある。これも問題。もう少し、唱えている事が正しいんだとアピールしていただきたい。
Q 新しい領解文を「うちは唱えない」と言われている僧侶がいる。これはご門徒さんとちゃんと会議をして話し合った上の発言か。住職のただのワンマンではないか。ここに御同朋、御同行の心が抜けているように感じる。深い意味がわからずに、「他の方が反対しているから私も反対しよう」という、そういう空気感を感じる。
真宗の流れを感じない。心が苦しい。
Q 私はいま心が苦しい。私は浄土真宗のみ教えにはついていけるのかなと。やめようかなと思うぐらいの気持ち。初めは古いと感じた蓮如上人の領解文も、学べば素晴らしいと感じた。すべてがつまっていると感じた。浄土真宗本願寺派は日本最大の宗派、一万何ヶ寺もあるなどと言われているが、蓮如上人さまの領解文を見ていると、ここに来るまでのご苦労、お気遣いを感じる。私まで届けられたのは蓮如さまのおかげかなと、領解文を唱えれば唱えるほど、有難いものだなという事で感じ味わう事ができる。一方で、新しい領解文からはそのような思いを感じない。
Q いつも仏さまには頭を下げて、自分は下において、崇めて拝んで讃嘆をしている。一方で「ありがとうといただいて」は何か目下の事を言っているような感じがする。日本語としては失礼じゃないか。仏さまに向かって「ありがとうといただいて」などと言いますか。
Q 解説文の中に「不断煩悩得涅槃」「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」とある。阿弥陀さまのおさとりを解釈する為の説明文になっている。わかりやすさを目指した文を作成するにあたり、仏のさとりをあえてそこに記した理由は何か。勉強しても「不断煩悩得涅槃」のところはなかなか難しく、すぐに理解できるものではない。
Q 「浄土真宗の救いの喜び」。この救いの喜びは割と好きだった。蓮如さまの「領解文」から、「浄土真宗の救いの喜び」、さらに「新しい領解文」と、三段階にわけて領解文を扱った。だんだん蓮如さまの領解文が消えていくのかと心配になる。
誤解をされず、かつわかりやすく伝える手法は。
Q 「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という言葉。説明を受けると、「なるほど」とわかる。一般の方もそうだが、これを読んで、「煩悩は煩悩でしょ、さとりはさとりなんじゃない」と受ける人たちがいると思う。先ほどの説明以外に、わかりやすく伝える手法というものがあったら教えていただきたい。