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山口教区の学習会、質疑応答

2023年10月10日に開催された山口教区の学習会より、質疑応答の要約を記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


安心について

1,質問者A
Q 長崎教区では、二種深信がこの新しい領解文において成り立つのか。とりわけ機の深信が成り立つのか、その出拠根拠をあげて欲しいという質問に対して、満井所長は「愚身」で成り立つと答えたが、その根拠をあげないまま質疑が終わったと聞いている。その根拠を示してほしい。

A(満井所長)新領解文に二種深信がなければ、勧学寮は同意しないのではないか。勧学寮の同意があるということは二種深信に問題なしと判断したと長崎教区では答えた。そのうえで機の深信がどこで立つかと言えば、わが身を「愚身」と認識するところで語るべきであろう。異安心でないかという疑問に対しては、勧学寮の同意があるのだから私が説明するよりも明らかである。

Q しかしこの場は総局の立場で満井所長が責任もって答える場である。勧学寮の名を出さず、所長の言葉で説明を頂きたい。

A(満井所長)勧学寮の解説の枠を超えるべきではないという立場で上記のように答えた。そのうえで私の言葉で語るならば「愚身」で機の深信を語ることが出来ると考える。確かに善導大師の観経疏散善義にあるような機の深信の表現は見られない。しかしそれは従来の領解文も同様である。自力心との決別という表現があるかという点は大切な視点であるが、そうであっても機の深信が無いとは思っていない。

Q 自力心の否定が明確でないということは問題である。この言葉の後には「少しずつとらわれの心を離れます」とあることからすれば、機の深信を否定するような異安心を生み出すような危うさがあるのではないか。

A(満井所長)異安心を生み出す危険性があるということは指摘のとおりである。臨終のときまで凡夫であることは共通の前提の上で、あえてこのような表現をご門主様がなさったのはなぜかということをお互いに考えたいというのが私の提案である。また(執らわれのこころ~の部分は)私の理解としては内発的に変えられたということを自己表明する表現と考える。ただ、なぜこのような表現をされたかということはお互いに考える必要がある。

Q ご門主の意図も真実信心を正しくわかりやすくという意図で発布したものと考えるが、わかりやすくの以前に正しくという所を押さえるのが僧侶の務めである。そうであるならば、共通の前提知識があるということを前提に説明すべきではない。改めてその根拠を尋ねる。

A(満井所長)正しさをどこで担保するかという視点は重要だが、忘れてはいけない視点(一念多念文意など)を提示するだけに留めたい。従来の領解文もわかりやすいものではなかった。得度してから長い時間を経て腑に落ちる部分もあった。

Q この新しい領解文は正しい宗意安心を表したものなのか。

A(満井所長)従来の領解文と新しい領解文は一見して異なることは確かである。一見して異なるからと言って間違いというのも違う。機の深信を掘り下げて表現したのが従来の領解文。しかし戦後教育を受けた人口が8割を超える現状において罪深い、あさましいという文脈は現代人に受け入れ難いものと考える。そういう文脈の中で私は説明をしている。

Q 伝道という視点が大切なのはわかるが、それは浄土真宗という教えに裏付けられたものでなくてはならない。根拠を示してほしい。

A(満井所長)新領解文の上では「愚身」に尽きる。この新領解文の主題は、先手の呼び声が私に届けられ、これを聞即信と自らのはからいなく受け入れる所に私たちの信心と称名が語られるのが基本構造である。その中において生死即涅槃は仏知見からであるから、生死即涅槃のゆえに救われるとなれば信心不要論となってしまう。そのような考えを取るものではない。もちろん、機の深信という側面が弱いという意見は否定できない。ただし、約生として機のありようを見つめた表現と、約仏として仏徳讃嘆として述べられた表現は二者択一の関係ではない。

Q 「愚身」が機の深信となる根拠を示してほしい。私は先ほどからそれしか質問していない。文脈上、「愚身」を機の深信と読めるのか。ここでの「愚身」は、「この愚身をまかすこのままで」という文脈で出てくるが、それは煩悩とさとりは本来一つと頂くような愚と読める。何を根拠にこの愚を機の深信と読めるのか。

A 回答無し

第3段について

2,質問者B
Q 自力心の決別や機の深信が新領解文には明らかに示されていないという満井和上の見解を確認したうえで、自力が廃った心の無いまま新領解文の最後の段にある念仏者の生活を読むと、私がこれらの行いをやっていくとしか読めない。これが他力によって催されると読める部分があれば教えてほしい。

A(満井所長)第3段の念仏者の生活は努力目標として語った部分ではない。お慈悲によってお育て頂いたその身の幸せを、多くの人におすそ分けさせていただくことを伝える部分であると私は考えている。ここを自力によるものではないということをお取次ぎの中で伝えていくことが大切だ。社会貢献という視点を入り口にして若い人には浄土真宗に親和性を感じてもらえるのではないか。その点において約仏的な仏徳讃嘆は入り口としてありうる。ただし浄土真宗の肝要は二種深信である。そこを伝える手当は必要であろう。

Q 約仏的な仏徳讃嘆というが念仏者の生活の部分は約生である。

A 第三段は私の約生的な決意表明である。

発布における手続について

3,質問者C
Q この新領解文は正式な手続きを踏んで発布されたものなのか。中外日報には徳永和上の手紙が全宗会議員に届けられていると報道されている。

A(公文名総務)宗報6月号の総局見解で説明しているとおり、手続きに瑕疵は存在しない。勧学寮員議事録の非公開は勧学寮の判断である。武田前執行長の文書(※Qの徳永和上の手紙のこと)については中井幹事が説明する。
A(中井)徳永前勧学寮頭の独断で同意の判断をしたという部分が武田前執行長の文書の主要な点だが、勧学寮には12月16日に寮員が集まりそこで同意があったものと確認している。その寮員会議の議事録は非公開とすると勧学寮が決定している。

現場に大きな混乱が生じていることは認識している

4,質問者D
Q 私はこの新領解文は領解文でもないし、真宗でもないと受け止めている。まず「わたしの煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」というところは、煩悩即菩提、本有仏性という大乗仏教の基本を言っているのだと思うが、わたしの煩悩と仏のさとりと二つに分けているのは真宗の立場であって、本来の大乗仏教では行者の煩悩がさとりと本来ひとつ、本有仏性ということを言っているのであるから、この言葉は仏教でもないしもちろん真宗でもないと考える。もし、この話を領解文に持ってくるならば、「そのまま救う」という文言との間に、五劫兆載永劫の御修行という部分が必要である。つまり仏願の生起本末がすべて述べられなければ「そのまま救う」という言葉まで来ない。したがってこの段落は真宗義になっていない。次に「愚身をまかすこのままで」とあるが、「そのまま」と「このまま」は違う。「このまま」と頂くのはこれこそが無帰命安心、十劫安心ではないか。これは真宗義ではない。そして最後に念仏者の生活の段だが、真宗の救いは無作の救いであるから、このような約生的な実践というのものは表明するものではないと考える。

A(満井所長)「わたしの煩悩と仏のさとりは本来一つ」と「そのまま救う」の間に、仏願の生起本末があるべきにもかかわらずこれが抜けているという指摘については、阿弥陀仏の「われにまかせよ」との呼び声において、われわれの有り様が仏願の起こりになっていると私は考える。ただし、どこで仏願の生機本末というのを語られるかは、皆さんで考えて頂きたい。悪人正機が「そのまま」を「このまま」と持ち替えたことで混乱が生じたという指摘があったが、「そのまま」を「このまま」とした表記がそのままで良いかと言われると難しいが、私は話法として述べるならば、仏の救いの側で言えば「そのまま」という直接話法。それを受け取った私の側では「このまま」という受け取りになるということを言っている。念仏者の生活に関しては努力目標ではなくて、お育て頂いた私の絶えざる感謝として勤めさせていただく決意表明である。
A(公文名総務)100%唱和は宗会及び常務委員会で決議されたことであり、それを執行することが総局の職務である。それを無視することは教団のコンプライアンス無視となる。唱和については強制ではないが推進をする。

Q 今の総務の見解は問答無用、グダグダ言うなというように聞こえる。この学習会はただガス抜きの為に来ているということなのか。意見を汲みあげてもう一度検討をし直すというのが私は本当ではないかと考える(周囲から大きな拍手)。

A(公文名総務)現場が混乱していることは認識している。これで8回目だが違和感、反対意見を持つ方が多いことも認識している。しかし、解決方法は2つしか考えれない。1つはご消息の撤回、見直しである。しかしこれは今の宗門法規上100%ありえないと私は認識している。ありうるとすれば、宗会及び常務委員会で基本方針が決められたわけだから、これを宗会で改めて見直し変更することだろうと考える。
A(中井)総務の100%ありえないというのは先例上あり得ないということであって、戦時消息を依用しないということは宗令を発布して実施している。この宗令はご門主さまの名前をもって副書として総局員の名前をもって発布するものである。今のご門主さまが自身で発布した消息をご自身の名前で宗令を発布して取り下げることはあり得ないということである。

新領解文に違和感、反対意見を持つものは宗門の一部でないことを認める

5,質問者E
Q 宗報6月号総局見解に、宗門内の一部の者が新領解文の内容に異議を唱えているという記述がある。私にはとても一部の者とは思えない。本当にそのような認識なのか。そして、総局としては沢山ある意見の調整をリードしてもらいたい。

A(公文名総務)32回以上予定している学習会のうち現在8回目である。総括は全教区が終了するまで待ってほしい。そして、総局としては勧学寮に対して何らかの説明を求めて行きたいと検討している。また、経本については新領解文と従来の領解文を二つ併記するものであって、唱和は強制しない。
A(中井)現在総局では「一部」という認識は持っていない。学習会開始から先般の長崎教区まで理解したという意見はほとんど出ていない。その意見は総局に持ち帰っている。大変な混乱が生じているということは重々承知している。

6,質問者F 意見表明
7,質問者G 意見表明

正しくわかりやすい領解文なのか

8,質問者H 
Q 1月16日御祥忌報恩講御満座で新領解文の消息発布、2月1日に本願寺新報でこの石上領解文が取り上げられている。ご門主様は「この領解文の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しくわかりやすい言葉で表現し」と仰った。それを受けた石上前総長は「まさにこの領解文の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しくわかりやすい言葉で表現された御文である」と言っている。しかし、その同じ紙上において掲載された勧学寮解説には、「私たち凡夫の立場からすれば異様な内容とうつります」との文言がある。中外日報記事では「(勧学寮は)解説に苦慮したと語り、真宗教義に添った解釈を基礎に持たないと誤解を生じる可能性があるため、解説を熟読してほしいと話している」と掲載してある。この時点で正しくわかりやすい言葉で書かれていることを勧学寮は否定している。つまり、勧学寮はご門主様を守るために新しい領解文を認めるしかなかった。しかも新しい領解文も素直に読めば異安心ととれる内容であるので急いで解説を書いた。実際には内容も言葉も正しくない、非常に問題があるというのが勧学寮の立場ではないか。なにより決定的なのは、今総局が全国を学習会で回っているということである。この学習会においても「今まで開催された学習会で納得したものは極めて少数(中井)」と、ほとんどの者が納得できない事実がある。これまでの学習会においても満井研究所長が発言を撤回したり、出向総務が「私は所長ほどにはわからない」と発言している。また、本日の学習会の中でも「異安心を招きかねないというのは仰る通り(満井)「なぜこんな表現をしたのかお互いに考えましょう(満井)」「宗務の基本方針で議決したことを執行する義務がある(公文名総務)」との発言があるが、そもそも議案を提出したのは総局である。この議案に賛成してほしいと提出したのは総局なのに、議決をした宗会に責任転嫁をしている発言がある。そして、出向者全員なぜかとても元気が無い。石上さんは元気よく念仏者として領解すべきことを正しくわかりやすい言葉で表現された御文であるとして、すべての人に唱和してほしいと勧めている。しかし、あなたたちは本当に唱和してほしいと思っているように見えない。あなた達は、自坊で門信徒と一緒に唱和をしているのか?

A(公文名総務)唱和はしていない。そもそも領解文を自坊で出言する習慣はない。ただし、新領解文について3回ほど解説はしている
A(満井)唱和はしていない。そもそも領解文について出言する習慣がなかった。自勤の法要で解説はしている。
A(中井)内容は説明しているが、唱和はしていない。

質問者Hの意見
領解文をする風習が無いからしないというが、ご門主様は石上領解文が正しくわかりやすいものだから唱和し拝読してほしいと言っている。それなのに、自分たちは自坊で唱和せず他の者に勧めるのはおかしい(大きな拍手)。
また、ここで私が「石上領解の文」と言っているのは、石上さんが黒幕という意味で言っているのではない。ご門主さまの名前で発布されたご消息を石上さんが「正しくわかりやすい」と領解された文という意味で用いている。

質問者Iの要望
2022年秋に5回ほど会議があり、現代語版領解文の制定委員会が開かれた。これは内容を検討するものではなく誰に制定してもらうかという会議。そこで権威あるものとして制定するためにはご門主様に制定していただくという意見が出ていた。ただし、領解文という表現は果たしてどうか。ご本山の改悔批判の内容とも関連するからその辺りも考える必要があるとの意見もあった。しかしそれが勧学寮に答申がされ、わずか数日で答申の答えが出てご門主様に申達がされた経緯であった。もうすでに決まっていて内容が正しいとかわかりやすいという議論は殆どされていない。やはり内容に問題があるのではないかということで勧学寮から意見が出ていたはずである。ここはもう一度正しくわかりやすいという点を考え直して、学習会が終わったのちに検討することが総局の責任ではないか。勧学寮の同意に瑕疵が無かったとしても総局が申達をしてこのような事態を招いているのだから、総局の責任として上書きなりを考えて欲しい(出席者から、皆さんしか出来ません。お願いします!との声があがる)

質問者J
Q 安心の厳しさが石上領解文の中に見受けられない。その点についてどう考えるか

A(満井所長)厳しさという点においては、返しても返しきれない不断の精進という厳しさがあることは指摘している。しかし、ぬるま湯的な心地よさを与えているだけではないかというご提言は受け止めさせてもらう



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