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東京教区学習会レポート

2023(令和5)年11月7日(水曜日)14時00分より、築地本願寺 講堂に於いて【新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)学習会】が開催されました。
宗派からの出向者は総局・三好総務、総合研究所・満井所長、統合企画室・中井幹事の3名。会場には石上前総長の姿もありました。

学習会の冒頭には教務所長より

本日は東京教区、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)学習会へご参加ありがとうございます。改めて学びを深める機会にさせていただきたく存じます。冒頭にこのようなことを申し上げるのは恐縮でございますが、一部の宗教専門誌などによりましては、他教区においては誹謗中傷でございましたり、怒号が飛び交うこともあると書かれてありました。その点、ないとは思いますが、東京教区では人格否定であったり、誹謗中傷ということは謹んでいただきたく何卒よろしくお願い申し上げます。糾弾会ではなく、学習会です。お互いに学びを深めさせていただくということを切にお願いを申し上げます。

とご挨拶がありました。
以下、当日の質疑応答の内容を記します。


質疑応答

【発言者A】責任は総局?

〇今回の領解文の発布及び推進ということに関して、ご門主がご消息を発布したことに対して、責は総局にあるという見解でよいか。

(三好総務)法規上、進達した宗務機関が責任を負う。この度は消息の発布ということで、総局の進達によるため、責任は総局にある。

〇この問いは、私がお預かりをしているご門徒に頼まれたもので三点ある。まず、ご門徒は今回のこの状況を外から見て、いま世の中が戦争などでたくさん罹災している状況も兼ねて、分断ということにすごく危惧を持っている。いま一つの本願寺派という組織の中で、領解文の推進派、反対派と色分けをして、白黒ついてしまうということに対して、ものすごく不安に思うという所存を述べてくれた。

もう一つは、新しい領解文、あるいは蓮如様の領解文と、それぞれ選択の自由を現場に委ねてほしいと。法話会や築地本願寺の報恩講は、できれば現場に携わる方々の意見を承けて選択の自由を貰えれば嬉しいという事。

最後に、一度決まったことではあるが、もう一度考え直すゆとりを持って欲しい。私も含め、ご本山が間違った事をするわけがないという思いをもって普段生活をしているから、どんどん物事が動いていく時に、後から振り返って、これはちょっともう一度考えたいなという事がたくさんあると思う。その事を、門徒僧侶問わず、みんなでもう一度考える機会を貰えたらとても嬉しいという事を預かってきた。

ここからは私の個人的な思いで、布教団の集まりの時に規則があって、本山の推進するものに乗れない場合は、資格を取り上げられてもしょうがない、という旨の発言があったり、あるいは他所でも反対活動をするのであれば、その資格をなくしてから、ニュートラルな立場で物を発言するべきだというような意見を聞いた。それはとても不健全な事だと思う。一つの組織の中に賛成派の意見があって、それに対する反対の意見というのも同時にあって然るべき。いま世の中のGAFAと呼ばれているような大きい企業は、どんどん現場の人の意見を取り入れて、柔軟に対応をして、組織の変革を試みている。そこのところを私個人としては宗門に対して切望する。

(三好総務)私たちも現場の状況そのものは、すごく憂いている事は間違いない。なんとかこの学習会を、もっと充実したものに取り組んでいかなければならないと常日頃、総局内でも話し合っている。

ご門徒からの意見は、全くその通りで、対立や色分けをしていくことの、暴力性と言っていいのか、決してあってはならないし、最初のA4の紙でご報告のとおり、これは決して強制されるものではないということの抑えはきちんとしておかなければならないと思っている。2番目の選択の自由を現場に委ねてほしいという意見はごもっともだと思う。この新しい領解文のご消息は、まだ発布されてから一年も経っていないので、すぐ現場に浸透するとは毛頭思っていない。この学習会を丁寧に進めていきたいという思いで進めている。

3番目の「決まったことではあるが」というのが、何が決まっているのかというところで答えが変わって来るので後でもう一度お尋ねしたい。最後の個人的なご意見で、布教使の資格を取り上げるとか脅しのような考えは一切持っていない。仰る通り健全な話し合いを大切にして、この問題を皆さんと一緒に深めていけたらいいと思っている。

3番目の問いかけ「決まったことではあるが考え直してほしい」という「決まったこと」とは具体的にどのことを指しておられるのか。

〇ご消息の発布そのものを指している。

(三好総務)内容も含めて発布されたものと認識をしているので、そこはまず大前提として、発布の事実や、ご消息の中身については、考え直すということは我々の今の立場ではできないと思っている。ただ、この学習会を深めていく中で、皆さんで共通の理解や認識を持っていくことの大切さは思っているので、是非色々話し合い、協議しながら進めていければと思っている。

【発言者B】これまでの学習会の成果は?

〇学びを深めていきたいという話があったが、取りやめることはできないというご発言。これまで様々な教区でこの学習会が開かれている中で、 どのような声を聞かれのたのか?

(中井幹事)本日の東京が12教区目。これまで11教区の正直な現状としては不信感のご質問ということになる。発布に関する手続き、内容に対する不信感のご意見ということになる。もうすでにSNS等々で様々な教区の概要が報告されているが、すべての教区ではないが、最終的に学習会で理解が深まったか等々の決を採られている。その結果はご存知のとおり。

〇私自身も、制定発布の過程に対する不信、また内容に対する不信、それから現在の対応に対する不信というものがある。冒頭に発布の責任に関しては総局にあると言われた。では、推進を止める責任というのはどこにあるのか?

(中井幹事)ご消息については、発布と推進の 2つあると思う。推進については、今の総局のスタンスとしては、定期宗会に基づく宗務の基本方針の議決、常務委員会に基づく推進の具体策というところにある。そこがあっての推進。発布にいては、説明のとおり事務的に勧学寮の同意を得て発布をしたものであるため、各学習会で取り消して欲しいことについては、現実的にはあり得ないと理解している。

〇宗会議長が一旦この推進を取り止めようと提案をされたと聞いている。これについてはその後どのように総局としては対応をされるのか?

(中井幹事)この件についても、中外日報等々で報告があるように、池田総長と園城議長が面会をされた。推進を止めるようにということであるが、池田総長からの回答は中外日報にあるように、現在の総局としては、基本方針の議決、具体策の議決に基づいて宗務を推進していくというスタンスは変わっていない。

〇現場の声も反対であるというのが圧倒的に多い。宗会議長もこれを一旦取りやめるようにと声を届けている。その声をどのように受け止めて対応していこうと考えているのか?

(中井幹事)三好総務も言われたとおり、総局のスタンスとしては、現状は十分理解した上で、その上で学びを深めるということについての対応を進めていくという考え方。

〇以前の教区学習会でも満井先生は「ほめられて育つ若者」という発言もあったと聞いている。今の子どもたちは、主体的対話的で深い学び方を学校でしている。主体的とは課題を発見することで、自ら課題を発見し対話をして、課題を解決していこうという学びをしている。そして私たちも、この学習会で「ここに課題があるのではないか」と多くの声を上げている。それについて、先ほど満井先生は「ルールではなく、掟ではなく、内発的に」と仰った。これについてどう対話をするのか?ルールに瑕疵はないというが、(学校の)校則も制定をするのにルールには瑕疵はない。でもその校則がおかしなものであれば、子どもたちは声を上げ、学校側もその校則を改定しようとする。そのように現場の声や、宗会議長の声をどのように対話をして、その課題の解決に向けて動こうとされているのか。

(座長)ご意見ということでよいか?

〇お聞きしたい。たとえば全教区の学習会が終わって、こういう声が上がった。そうしたら推進を止めるのか?

(三好総務)学習会を全教区開催した上でしか、私たちは考えることはできないと思っている。まずは全教区開催、それが今年度の宗務の基本方針に基づいて計画された宗務の具体的な方針なので、それを努めていきたいと思っている。

〇浸透させるという上でも、各教区の学習会にこうしたオンラインでの参加というのを全国的にしてもらった方が話が早いんじゃないか。要望としてお伝えしたい。それともう一つ、内容の責任は勧学寮にあるという答えでよいか?

(三好総務)手続き上、勧学寮が同意をされたので、消息として発布をされた。発布の責任は総局にある。

〇内容の責任は

(三好総務)内容も含めて総局に責任がある。

〇勧学寮の説明を基に内容の説明をされているから、これを書いた勧学寮に説明をしてもらいたい。どこの教区に行っても満井先生のみで、満井先生の個人的な見解ではないかという不信を覚えても仕方がない。勧学寮の説明がないのであれば、満井先生に真宗学会などでもこれについての説明を論文として発表していただきたい。

(満井所長)私は個人参加ではない。総局の学習会なので、総局直轄の研究所長として参っている。勧学寮の説明については、部長。

(中井幹事)勧学寮にご出講いただきたいというのは、ご案内のとおり各教区から出ているので、再度あらためて勧学寮にお願いもしたが、今のところそれが形になって表れてない。お願いはしている。

【発言者C】「本来ひとつゆえ」の出拠は?

〇満井所長より「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ 「そのまま救う」が弥陀のよび声」について、宗祖親鸞聖人がお示しくださった自力無功の私を救ってくださる他力の救い、他力のはたらき、他力の真実信心が示されていないと思う。また、2009年に発行された『拝読 浄土真宗のみ教え』の初めに示された「浄土真宗の救いの喜び」はその出拠が明らかでないという理由で突然削除され、2019年に新たに『拝読 浄土真宗のみ教え 改訂版』が発行された。では新しい「領解文」は「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ そのまま救う が弥陀のよび声」について聖教のどこに拠り処があるのか。

(満井所長)「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」、それがよび声になっていくという出拠について、生死即涅槃の出拠は『正信偈』にある。しかしこれがよび声になっていくという出拠は見えないという質問か。まず最初の説明の中で『論註』の善巧摂化章の一節を紹介した。仏智見から見たときには凡夫虚妄の実相をご覧になり、そのまま放ってはおけない慈悲へ展開する。その慈悲の具体相がよび声である。これは回向法の根源、つまり他力回向なのはご承知いただいていると思う。回向法の根源も仏智見の生死即涅槃という道理である。このことは『論註』においては無碍の説明としても用いられている。讃歎門で讃えられる無碍光としての「無碍」というものを生死即涅槃の道理として讃えられているので、出拠が無いとは思わない。

次に他力の前提となるべき自力無功が新しい「領解文」のどこに見られるのか。別会場でも質問があったが、自力心との決別という表現がここには薄い、伺いにくいという気はする。しかし他力回向法の根源が示されることで法の深信があり、法の深信の裏付けには機の深信が二種一具としてある。それが愚身という言葉。愚身は単なる謙譲語ではなく、法の深信に裏づけられ、真宗安心の構造というのも担保されていると考えている。

〇今の説明では理解しがたい。仏智見で見られたのは、自力無功の私の姿であり、その私を救うために願いを起こされた。煩悩とさとりが一つだから願いを起されたわけではない。煩悩とさとりが一つだからそのまま救うと呼びかけられたことの出拠はどこにあるのか。「浄土真宗のすくいのよろこび」は出拠が明らかでないから削除されたのであれば、新しい「領解文」も出拠が明確でないとおかしいのではないか。

(満井所長)ほぼ類似の質問は他教区でもある。「出拠がない」としきりに言うが、生死即涅槃は出拠がないわけではない。仏智見でご覧になったうえの慈悲の展開も、善巧摂化章で申しあげた通りである。ただし指摘された自力心との決別がどれだけ窺えるかは課題として残る。こうした学習会においては我々も含めてそういう姿勢をそれぞれに共有していただきたい。

(中井幹事)「浄土真宗のすくいのよろこび」は「出拠がない」ということも一つの理由に挙げてあるが、削除された理由ついては総局においてトータル的に判断をしたということである。

【発言者D】新しい領解文と御文章は合致しているのか?

〇『御文章』は「御常教」である、つまり「常の教えである」ということは間違いないか。

(満井所長)はい。

〇布教の最後に「肝要は拝読の『御文章』」と締めくくるのが布教の作法である。真宗の肝要は『御文章』であり、そのことを聴聞した人が「領解出言」と従来の領解文を出言する。つまり『御文章』と従来の領解文は「蓋」と「函(箱)」の関係(函蓋相応)に間違いないか。

(満井所長)はい。

〇では新しい「領解文」はどのお聖教と「函蓋相応(かんがいそうおう)」であるのか。

(満井所長)直接的には従来の「領解文」である。「安心報謝」「至徳」「法度」の三段論法として浄土真宗の御常教と相応している。

〇では新しい「領解文」と御常教である『御文章』が「函蓋相応」しているというのか。

(満井所長)重要部分では「函蓋相応」している。

〇「重要部分が」ということではなく、新しい「領解文」と『御文章』が本当に相応しているのか。

(満井所長)「継承されている」「受け継がれている」という点では相応している。

〇そうではなく「聖教の御文」と「領解」が言葉として本当に相応しているのか。

(満井所長)一対一の対応かというとそうではない部分がある。ただし骨格においては一致している。

【発言者E】学習会における答弁の矛盾

〇各総務が各教区を回っているが、総務によって見解が違っているのではないか。荻野総務はかなり強めの発言だったのが、だんだん変わってきたようである。公文名総務は宗制を直す、新しい領解文をやめると言って池田総長がたしなめるということまで報道された。さまざまな報道の情報を通じて総局内のおいても非常に動揺があると受け止めている。強引に推してるから現在の状況があり、各教区で、多様な意見と厳しい意見が飛び交っている。例えば他教区で「もし手続きに瑕疵があるならば、認証の部分までさかのぼらなくてはならない」と答弁されている。普通はこうした答弁はしない。認証に問題がなく、もし問題があるならば、ということは今回の発布にあたっては現行法規の非常にタイトな部分をぬって発布に至ったという経緯が窺われる。つまり現行法規を相当学習して発布に至ったことが窺われる。宗法上問題がないと言うがかなりの無理を全体に感じる。

宗報10月号で池田総長と浅田勧学寮頭の手紙が掲載された。浅田勧学寮頭は勧学寮の独立性ということを前提とし、深川・森田勧学様をはじめ、他の有志の方々に対して指導する立場にないという。その上で有志の会の意見が正しいという。要するに双方の立場は食い違いがない。その事実を総局が宗報として発表した。つまり有志の会に問題はないということではないか。新しい「領解文」に意見している方が正しいと。それほど問題のある新しい「領解文」をなぜ強引に推すのか。

いま東京教区は全国から注目されている。なぜなら現総長と前総長を輩出し、認知、推している教区であるから。その前総長の後援会長は言うまでもなく座長である。東京教区は責任が大きいと感じるが、この勉強会の参加人数が実に少ない。それはつまり現総長と前総長の意見に賛成の方が多いからではないか。私は大反対である。

(満井所長)『宗報』の内容について、浅田寮頭が有志の会の言い分を正しいとするのは、新しい「領解文」が間違っているという意味ではないと思う。どちらかが正しい、どちらかが間違いという二者二択の論理の発言ではないと思う。

〇間違っているとはいっていない。そのことは満井所長と同じである。

(三好総務)総務における見解の相違や内部の混乱と意見があったが、そんなことはない。答え方はそれぞれにあったと思う。少なくとも民間の宗教新聞の情報がすべて正しいというわけではない。

〇あえて民間の中外のことを出したが、ネットや直接お伺いしたことも含めてである。

(中井幹事)記事には前後のくだりがない。「強制はしない」というスタンスは変わらない。公文名総務はあくまでもこの混乱を治めるための方法論の一つとしての提示である。その点は間違えないようにお願いしたい。

〇つまり治めるということも頭に入れざる負えない状況だったということか。

(中井幹事)私が言ったことも公文名総務が言ったことも、あくまでも瑕疵がないという前提である。万が一瑕疵があった場合は少し意図が変わる。『宗報』掲載のご指摘の点は「有志の会が主張する内容は教義に違するとは言えません」とは満井所長と同じである。現寮頭、勧学寮がどの立場にいるのかは『宗報』6月号の石上総長の退任の挨拶に書いてあるように、5月10日に直接会い、お二人で浅田寮頭からもこの同意したという事実は間違いないということである。そのことの立場は変わっていないと認識している。

【発言者F】第3段について

〇「新しい領解文」第三段に「執われの心を離れます」「むさぽりいかりに流されず」とあり、勧学寮の解説には宗祖の「〜無明の酔いもようようすこしずつさめ〜」(御消息)の御文を引用されている。しかし宗祖の意は(無明に)酔っている状態を表している。例えば、ぐでんぐでんに酔っている人が何とか歩けるようになったら周囲は「あぁ、少しは酔いがさめてきたな」と思うが、まだ酔っていることに変わりはない。宗祖が『一念多念文意』に「臨終の一念にいたるまでととまらずきえずたえず」と仰る如くである。しかし「新しい領解文」に「執われの心を離れます」「むさぼりいかりに流されず」とあるのは(無明に)酔っていない状態を表している。勧学寮の解説文は相当な無理をして、「新しい領解文」を宗祖の意に沿うように解釈をされていると思うが、満井和上はどうお考えになるか?

(満井所長)酩酊状態に近いということは『一念多念文意』の意から一歩も出ることはないはず。御門主もこのことを分からず仰っているはずはない。ではなぜ少しずつ醒めた状況を語られたのか。そこを私も勧学寮も考えて、これは『一念多念文意』が根底であることは動かない。動かないけれども何故こういう表現をされたのか皆考えて頂きたいという、一つの問題提起を私は投げた。

現代の若い世代、褒められて育ってきた人に否定的文脈で語ることを避けたのではないかと思う。さりとて褒められて育った人が自分だけ良いという考えでは決してない。むしろ社会的貢献に積極的で、例えば東北の雪害に福岡の大学生が駆けつけて「お互い様ですから」と言った。彼女らは他力で動かされているのではない。そこにはむしろ他力も自力もない(それは成仏道であるから)。彼ら彼女らは社会的貢献に積極的なので、浄土真宗が若い人に訴えかける上で一つの糸口として、社会性がそれにならないかとお考えになられたのではないかと考える。

〇宗祖の仰る「臨終の一念にいたるまで〜」(自力無功)が腹に(安心)あれば別だが、初めて「新しい領解文」に触れる方にすれば「浄土真宗は私の煩悩を断ち切って悟りに向かう教えなんだな」と思うに違いない。それは機の深信が「新しい領解文」には見当たらないからである。「新しい領解文」のどこに機の深信の押さえがあるのか?

(満井所長)自力無功、自力心の決別が読み取りにくいと言われるのはご指摘の通り。ただ機の深信で言えば、愚身で語り得る。その愚身も単なる謙譲語であれば機の深信にならないのであって、法の深信と一具でなければならない。その法の深信で言えばこの「新しい領解文」全体が約仏の視点として、仏徳讃嘆として語られており、法の深信の側面が担保されている。機の深信はその意味において愚身で語り得ると思う。

【発言者G】新しい領解文が誤解を生むことについて

〇「新しい領解文」は唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるように作られたとご消息に書かれている。勧学寮の解説文を読んでということでもなければ満井和上の説明を聞いてということでもない。「新しい領解文」に書かれている言葉が全てであり、それが一人歩きしていくことになる。文字通り受け止めたら、浄土真宗のみ教えは執われから離れていく教えとしか読めない。それでは宗祖の示されたみ教えとは真逆になってしまわないか?

また、先ほど満井和上から若者のボランティア精神や社会貢献についての発言があったが、その一方で、そういうことをしたくても余裕がないがために、すぐ怒りに流されたりして自己嫌悪に陥っている若者もたくさんいるのではないか。唱和推進を続け、この御文が一人歩きして行った先に、大きな誤解を招き間違った教えが伝わっていく、また苦しんでいる若者を傷つけていくかもしれないという危機感や危惧のようなものが総局にはないのか?

(三好総務)「少しずつ執われの心を離れます」とか「むさぼりいかりに流されず」とそこだけ切り取ったら確かに危険性はあると思う。ただ、それぞれの前には「み教えを依りどころに生きる者となり」「生かされていることに感謝して」とあり、このことが前提となっていると私は読んでいる。今の若い人たちは社会貢献に積極的で、その若者のメンタルにどうアプローチしていけるのか、入り口をどのように構えるのかということが大きなテーマとなって、新しい領解文が作られていったと私は認識している。

〇社会貢献をしたくてもできない、今まさに苦しんでいる若者に視点をあてた新しい領解文であってほしかった。

(三好総務)そういう領解文にしていきたいと思っている。

【発言者H】新しい領解文を受け取れない者は異安心?

〇「この愚身をまかす」の愚身を「み」というふうに書かれているが、そこだけ満井和上はお聖教に一切当たらずに、言葉もすっと流されている。お聖教の上の根拠と、どこが元になっているのかというのをお聞きしたい。
もう一点は、「生きる者のよりどころとなり(み教えを依りどころに生きる者となり)」とあるが、私はむさぼりいかりに流されることしかできない。新しい領解文はご門主様が発布した。その上でご門主の法規の位置付けは宗法第八条(宗意安心の裁断)で、「門主は宗意安心の正否を裁断する」とある。新しい領解文は浄土真宗の宗意安心と総局が位置づけているのだと思う。そうすると反対したということはご門主からいただいた宗意安心ではないということになり、異安心になると思う。そうすると、この御文を読めない私は地獄落ちと感じるが、どうなのか?

(満井和上)愚身の出拠は『歎異抄』に、「愚身〔の信心〕においてはかくの如し」(第2条)とある。それを「み」と読ませるのは宗祖の左訓では私は見つけていない。
もう一点、地獄落ちについて、少なくとも異安心が地獄落ちということはない。地獄に落ちるのは私たちが本来持っている「地獄一定すみかぞか」ということによって地獄落ちである。お名号を称えさせていただいている上においては、報土か化土とかいう違いはあっても、地獄に落ちるということはない。『歎異抄』でそういうやり取りがあった通りで、そういう心配はいらないと思うが、「地獄一定すみかぞか」という認識は私もあなたさまも共通だと思っている。

〇ご門主が定める宗意安心と違うということは浄土真宗の信心をいただけないという事であると思う。そうすると信心いただけないものが浄土に往生することはないので、地獄必定の身は地獄に行くしかないということであるが、その点はいかがか?

(満井和上)先ほどの質問と関わるが、このたびの領解文がご門主の安心表明だとした場合、これが正しければ蓮如上人がご常教としておっしゃっている蓮如上人作と伝われる従来の領解文、これ異安心になる。これは決してない。どちらかが正しい、どちらかが間違っているのではないということ。

【発言者I】浅田和上の宗報回答について

〇宗報についての質問。淺田先生の文書はなぜ10月号に掲載されたのか?石上総長(当時)のお願いの文書は5月10日の日付で6月号に掲載され、淺田和上の回答文書は6月21日の日付で10月号に掲載された。なぜ10月号掲載であったのか。

(中井幹事)石上総長のお願いを載せる背景については、総局の対応を広く知らせるため載せたいということがまずあり、返答も載せる前提で確認をしている。8月末からの学習会が開催される中で、意見等を踏まえながら慎重に(掲載の)判断するべきでないかということが、いったんブレーキをした。その中でなぜ10月に載ったかという理由は、学習会の折りに、ある教区から一方的情報掲載に対して不信感があると意見があった。その要望があったことと、当初から掲載するということであったので10月号に掲載をした。

〇ブレーキの理由は?

(中井幹事)例えば、各教区有志の推進を止める署名であったり、フェイスブックの新しい領解文を考える会の議論、SNS上の情報が諸処に反響をよんだという事実がある。特にフェイスブックの内容については、一旦閉鎖はされたが、大勢の方が(対象者の)実名をあげて意見を言われている。そのことは慎重に判断した。

〇掲載することによって中傷される人が出てくるということか?

(中井幹事)後段に実名はでてこないが、中外日報にもっていったということがある。

〇勧学和上2名がもっていった様子ということの確認はしたのか?

(中井幹事)総局が勧学寮の正式な公文書の内容に裏付けはしない。その考え方はない。

〇宗報に総局が掲載した。発行責任は総局なのか?

(中井幹事)間違いない。先述したがこの文書が掲載されることは、寮頭の名前で来た公文書だが、勧学寮頭に確認済みだ。載せることを踏まえた上での回答の文書であると受け取っている。

〇事実確認はしていない。淺田和上も「様子です」という表現をされている。すべて憶測の域を出ていない。

(中井幹事)先述の通り、公文書はそのまま受け取れば、寮頭の仰ったことをそのまま受け取るということ。

私は個人的には名誉毀損になるのではないかと思った。

(中井幹事)そのことについては総局へ直接の質問があった。弁護士に確認したところ、特定の方の社会的価値評価を低下させるという内容には受け取れないので、名誉毀損は成立しないという見解であった。

〇弁護士の方の見解であって、決定ではない。

(中井幹事)はい。

〇この文書がもっと早く宗報に掲載されていれば、既に終了している教区の学習会でもこの文書の内容に関しての質問があったはず。さらに、「有志の会が主張する内容は教義に違するとは言えません」と勧学寮頭の印が押されている。なぜ勧学寮が来ないのかという意見が出ているが、すでに勧学寮頭は有志の会の主張内容、特に「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」「機の深信が見えない」「執われの心を離れます」等のお言葉の危険性を指摘している。その主張に対して(勧学寮頭は)「教義に違するとは言えません」と回答されているがどのように考えているのか?

(中井幹事)教学的なことに対しての総局の見解はないが、認識の限り、有志の会が主張する内容についてどうこうは立ち入っていない。有志の会の主張の是非について、もしくは間違っているというスタンスで、そのような説明や見解を述べたことはない。

(満井所長)どちらかが正しくて間違っているかではない。約仏、約生で語るかの視点の相違。義において、有志の会の方々の内容が間違っているとは私も思わない。

※この質疑の後、しばらくして中井幹事より間違った回答に対する下記の謝罪がありました。

(中井幹事)勧学司教有志の会の内容に一切対応していないと言ったが、総局見解でも「宗門内の一部の方がその内容に異議等を唱えられている」と総局は言っているので、スタンスとしては「異議を唱えられている」というスタンス。先ほど全く対応していないと申したが、対応していた。 

【発言者J】新しい領解文は大切な指針

〇私のお寺では毎朝お朝事をおつとめする中で「新しい領解文」をご門徒の皆さまと一緒に唱和している。「よし、今日からまた頑張っていこう」とおっしゃる方もいる。全員が傷ついているわけではないことを大切にしたい。
ご門主は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」のご親教にて
このたびの、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)が、従来の『領解文』の精神を受け継ぎ、智慧と慈悲という如来のお徳を慕いつつ、仏智に教え導かれて生きる念仏者の確かな指針となりますことを願っております。そしてこれからも、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われた親鸞聖人のお言葉を胸に、すべての人々が心豊かに生きていける社会の実現に向け、ともどもに歩み進めてまいりましょう。と仰っている。いまこの社会の状況の中で多角的にさまざまな分野と対話をしながら物事を進めていく上で、とても大切な指針ではないかなと味わわせていただいている。

(座長)ご意見として伺っておく。

【発言者K】愚身(み)の出拠は?

〇「愚身(ぐしん)」を「愚身(み)」と読ませる出拠や根拠はどこにあるのか。

(満井所長)少なくとも親鸞聖人の左訓には確認ができない。それ以後のことについてはご容赦いただきたい。

〇出拠がわからないものを読まないといけないのか。

(満井所長)「出拠がわからない」という場合、例えば「浄土真宗の救いのよろこび」の出拠がわからないというのは「作者不明」ということにおいて「出拠がわからない」と言っている。今回の場合は出拠が当門様ということで間違いはない。ただそれぞれの一文において出拠の聖教の御文と一対一で対応できるかということについては、すべてを渉猟しているわけではない。他で質問をいただいていることについてはお答えをさせていただいている範囲内である。

〇1月にご消息が発布され「若い方やご縁のない方にも」と唱和推進が進められてきたが、実際にアンケートなどをとって現場の反応は確認しているか。

(中井幹事)そういったアンケートはとっていない。慶讃法要の参拝者へのアンケートでは新しい「領解文」に心を打たれたという人が(正確に把握はしていないが)10%くらいだったと思う。

〇法要に参加する従来の方だけでなく、そうでない方にも唱和推進を勧めるのであれば、新たに調査を進めてみてはどうか。なお、築地本願寺のある行事では20~30代の仏法に縁のない若い方が参加されることも珍しくなく、最後に職員の方が新しい「領解文」を読み、同時にアンケートの記入がある。詳細は控えるがアンケート結果には新しい「領解文」に批判的な声があっても、肯定的な声がひとつもない。新しい「領解文」を届けたい若い世代にもなかなか響かないのであれば再考の必要があるのではないか。ただし、発布された御消息や新しい「領解文」を取り下げることが法規上は現実的ではないようなので、御門主様や総局、勧学寮が協力して「もっと新しい『領解文』」や「新しい『領解文』ver.2.0」を作成し、僧侶も門徒もそうでない方々にも受け入れていただけるような方向性があってもいいのではないか。

(三好総務)この学習会は内向きの議論が続いてしまっている。その中で前向きな意見をいただき、たのもしく感じる。ぜひ精いっぱい努力させていただく。

【発言者L】誤解を生む危機感はないのか?

〇先ほど、この新しい領解文でご門徒が傷つけられているという話があった。そういうことのないように、この新しい領解文を作成するにあたり宗門の叡智を結集させる必要があったのではないか。前にお答えいただいた中で「み教えを依りどころに生きる者となり」という前提の上に「少しずつ執われの心を離れる」という御文が成立しているとお答えになったが、それは総務がご法義をいただいているからそう読めるだけであって、聴聞されたことのない人が初めて読むと、「執われの心を離れます」が結論だから、浄土真宗は執われから離れる教えと理解されるのは明白ではないか?そういう誤解を生じていくという危機感はお持ちでないのか?

(三好総務)言葉であるから、どんなことが起きるかはわからないが、受け止められないという方がいらっしゃった場合、そこで問われてくるのだと思う。総局の中でも、新しい領解文に限らず宗派から発信される言葉の数々には細心の注意を払っているつもりである。だから、私個人的にはこういう学習会を開く、人間の関係性を深める、それより他にないのではないかと思う。

〇学習会に来られる人はそれで学べるかもしれないが、この新しい領解文が一人歩きしていくことを危惧している。だからこそ、強引に何があっても推進していくのではなく、誤解を招くことのない、また教義的にもおかしいと指摘されることのないような新しい領解文にバージョンアップしていくという方向性もぜひお考えいただければ有り難い。
(会場から拍手が起こる)

【発言者M】答弁に対する質問

〇(中井幹事に対し)異議の内容を取り下げ撤回等と仰ったが、ここは訂正されなくて良いか。

(中井幹事)異議というのは取り下げや撤回ではなくて、(有志の会は)この領解文自体が間違っているというスタンスでのご指摘だが、総局は勧学寮が同意しているから間違っていないというスタンスなので、異議というのは勧学寮同意の下に立っている総局と、同意したもの自体が間違っているというそれが異議。

〇よく分からない。

(三好総務)有志の会がネット上で情報を拡散されていること、それ以外でも情報が上げられていることは承知している。しかし、それは飽くまでも非公式の会であるので、公の総局が反応できない。だからといって、混乱が生じていることは事実である。ピンポイントでこの人の意見がということに何か申すことができない立場であることはご理解頂きたい。

〇そうすると、先ほどのSNSの情報(非公式なものによって)でブレーキをかけたのも問題にならないか?

(中井幹事)当局でもSNSで意見を述べたら良いのではないかという意見もあったが、今申し上げたのは土俵というか、そこには正式、公式非公式がある。あの時に、一つ一つの総局の発言、それからすべてのものが、そこが一つのターゲットになっている、ということであれば、そこはしっかりと(よくききとれず)ならないと。

〇それは先ほどの中傷のことだと思う。それならば、淺田和上は、勧学寮頭は有志の会の主張に対応されている。総局は答えることができないかもしれないが。

(中井幹事)回答書の中に指導は出来ないとおっしゃっていたと思われる。

〇主張に対して、教義的な主張をしている、それは間違っていない宗意に違していないと淺田和上ははっきりと仰っている。先ほど申し上げた、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」、「私の」煩悩ですからこれは仏智見では語れない言葉だと思うが、非常に誤解を与えやすい表現が為されている。機の深信が欠落している。その上で、少しずつ執われの心を離れますというのは、非常に怖いと思う。それを(批判を)淺田和上も宗意には違していないと仰っている。満井和上も東京教区布教団の研修会にいらした際に、(私の煩悩とほとけのさとりの部分は)「ただちに間違いないではないが、誤解を与えやすい表現であることは間違いない」という内容のお言葉を仰っていた。勧学寮も有志の会の主張は間違っていない、満井和上は総局のお立場?

(割って入るような形で満井所長)使い分けているわけではない。生死即涅槃は誤りではないが誤解される可能性がある、と申し上げて、皆さんはこれからお伝えくださるお立場ならこのようにいただきたいというのが当日の話である。

【発言者N】学習会に納得できたかどうかの決を取るべきでは?

〇最後にひとつだけ提案。他の教区の学習会では最後に議長から学習会に参加された皆さまに対して「本日の学習会で理解ができた方、納得できた方」と挙手で決をとっている。ぜひ今回も挙手にて参加された皆様に

(教務所長)※手を振って決を取らせないようにジェスチャーをする。

(座長)そのようなお話は伺っておりませんので、ここで閉じたいと思います。


閉会のあいさつ(三好総務)

本日はお忙しいところたくさんの方にご参集をいただきありがとうございました。個人的な感想を申させていただきますと、これまで私が出向した学習会から比べると、とても前向きなご意見を聞かせていただいて、本当に「学習会」という形になったと感じました。
先ほどから出ております通り、私たちの行き届かない部分があることは重々承知の上でございますが、我々に課せられた今回の学習会の意味を、我々自身で少しずつ吟味させていただきながらバージョンアップさせていただきたいと思っております。今後ともどうぞご協力のほど、またたくさんの意見をいただきますようにお願いいたします。

とまとめのご挨拶がございました。


参加者の所感

前総長・現総長のお膝元であることや、浅田勧学寮頭の文書が宗報10月号に掲載された後はじめての学習会であることなどから注目された東京教区学習会。当日は、石上前総長が一参加者として会場後方に座っていたことから、さらに注目度を増すこととなりました。

冒頭に新しい領解文の唱和がなされ、予想外に多くの参加者の唱和する声が聞こえました。これまでの教区にはない推進の流れになるかと思われましたが、質疑応答になるとその空気は一変し、一人をのぞく発言者全員が唱和推進に反対する意見を述べました。

他の教区と同様、推進の見直し、満井所長以外の勧学の説明を求める声のほか、「本来一つゆえ」「とらわれの心を離れます」、機の深信、愚身を「み」と読ませる出拠など、内容についての疑義を問う意見が次々と出されました。これに対する回答はいずれもこれまでと変わらない型どおりのもので、納得できるものでありませんでしたが、いくつか注目すべき質問・意見と回答がありました。

大きく3点です。

①「新しい領解文」のバージョンアップを求む

まずは、社会貢献をする輝かしい若者の裏で苦しい思いをしている若者たちに視点を当てた領解文であって欲しかったという意見に対して、三好総務は「そういう領解文にしていきたいと思います」と回答しています。またその回答を受けて、僧侶も門徒も若い人にも受け入れられるように「新しい領解文」をバージョンアップしてほしいと要望する意見が出されました。三好総務はこれについても前向きな意見と受け取り、「精一杯努力させていただく」と回答しています。

「そういう領解文にしていく」のは、解釈や学習の範疇ではなく、内容に踏み込まなければ出来ないことです。バージョンアップを「前向き」と捉えたことと併せ、内容をふくむ発布の責任がある総局が、いまの「新しい領解文」を改善が必要なものであると考えていることにほかなりません。この発言が後になって撤回されることのないように、今後の他教区の学習会を注視していきたいです。

強引に推進せず、誤解を招くことのない、教義的にも異義を指摘されることのない「新しい領解文」にバージョンアップしていくように考えて欲しいという声には、会場から拍手が起こっていたのも印象深いシーンでした。ただし、そもそもを言えば、「領解文」の言葉とはそう簡単に内容を変えられるものでないはずです。これを「新しい領解文」とした総局の責任は大きいです。

②「新しい領解文」は若者に届くのか?

それから二つめの重要な点は、このバージョンアップ要望の意見が、お寺に来た人の声を前提として出されたものであることです。若い人や初めての人も参拝する東京のお寺で、肯定的な意見が一つもないということを総局はどう受けとめるのでしょうか。本山の慶讃法要参拝者へのアンケートでは好意的な回答が少数ながらもあったということですが、それはすでに本山や宗門に親しんでいる方々が対象です。

しかし、「新しい領解文」を届けたいのは、今までご縁のなかった若い世代であり、入口に立ったばかりの人であったはずです。その対象者には、まったく受け入れられていない事実が明らかになりました。総局にはこのことを重く受けとめてほしいと切に望みます。残念ながら、いくら学習会を重ねたとしても、言葉そのものに若い人たちに響く力がなければ、伝わる伝道に資することはありません。

③勧学寮頭と有志の会の見解

三つめは、浅田勧学寮頭の文書に関してです。
石上前総長が浅田勧学寮頭に出した文書と、勧学寮頭がそれに回答した文書とでは、宗報掲載までに大きなタイムラグがあります。なぜ勧学寮頭の文書は10月まで掲載が見送られたのか?という問いに対しては、明瞭な答えが得られませんでした。これについてはさらに問うていく必要があります。

そして、浅田勧学寮頭が勧学司教有志の会の主張は間違っていないと明確に言っているのに対して、満井所長は「だからと言って新しい領解文が間違いとは言えない」と強弁しています。勧学司教有志の会は、明らかに内容が間違いだと指摘しているのですから、それは回答になりません。それに、誤解を与えやすい表現であることは満井所長自身も認めています。これについては、時間が長いという理由で質問者の発言が途中で止められましたが、つまるところ、勧学司教有志の会は見直しを求め、勧学寮頭もその主張に誤りがないと言い、研究所長も誤解を与えやすいと言っているのが「新しい領解文」ということになります。

ご門徒からは「私はお聖教に命を預けている」という熱い発言もありました。この「新しい領解文」に、命を預けられる人がどれだけいるのでしょうか。そのような言葉を得度式で強制的に暗誦させ、一生涯唱え続けさせようとすることには断固として反対し続け、取り止めを求め続けなければならない。その思いを強くする学習会でした。



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