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富山教区学習会、質疑応答

2024年1月18日に開催された富山教区の学習会より、質疑応答の一部を要約して記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


出拠の問題と総局の責任について

Q 新領解文は石上前総長の文章ではないかという疑いがある。特に「愚身(み)」という用法が石上氏の書にしか見られないが、その疑いに対して総局はどのように対応を考えているのか?

引用をどこからなされたかということに関しても我々はその領域に手をかけることは出来ない。これは、誰かの言葉を何かしら使われたとしてしか…(三好総務)

Q 愚身(み)に関して、石上前総長は何と言っているのか?

プライベートなところで、「私は存じ上げません」と聞いた。(三好総務)

Q ということは、内部の誰かが忖度して使用したと考えられる。本願寺で最初に使用されたのは2020年のメッセージポスター。これは総合研究所で作られていると聞いているが、満井和上はどのように関わっていたのか?制作過程は?

メッセージポスターの文献的な精査は私はしていない。制定過程にも関わっていない。(満井所長)

Q 学習会において、各教区で言葉が修正されたり前言撤回が見られる。間違った情報は誤解のまま残るので、宗報などの公式な場で訂正するべきではないか。

宗報でやるよりも、私の場合、長崎教区で発言したことについて、山口教区で公式に訂正をした。(満井所長)

Q 長崎教区の人たちはそれを聞いていないのではないか?

長崎教堂にはFax文を送った。それに対して、学習会で訂正したほうがよいと言われたので、山口教区の折に訂正した。(満井所長)

Q 三好総務は推進していくことが責任であると言うが、それは与えられた仕事をこなしているだけ。それよりも、こういう問題が生まれたことに対して何を訂正して、どのように対応していくのか、どうやったらこの疑いが晴れるのかを考えるのが総局の仕事だと思うので、今後注力していただければと思う。

無回答

本来ひとつゆえ

Q 「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつゆえ」の「ゆえ」がどこにかかっているのかが問題。(司教の論考を述べる)
これはどう読んでも「そのまま救う」につながるので、無帰命安心になる。これでは不信は払拭できないがどう考えているのか?

おっしゃるように危険である。私はみなさんの疑問を払拭するための論理は持ち合わせていない。ここで申しあげているのは注意点をご留意ください、ここは危ないですよと。みなさまがお取り次ぎなどで扱われる時には無帰命安心にならないようなお手当をお願いしますということ。危険である。だから口を酸っぱくするほど、どこにいっても、これは間違えないでくださいねと申しあげている。私の説明が和上のような質問を直ちに氷解できるものを私は現在、持ち合わせていない。そういう意味では私の説明は不完全なままである。ご指摘は請け負わせていただく。(満井所長)

Q 説明論理が不完全なら訂正が必要ではないか。有志の会が示すような修正をしたらいいのではないか?

誤解の危険性がないという点ではそのほうが危険性が少ないだろうと思う。ただ、あえてこういう表現を使われているのは、私の想像であるが、弥陀の救いの他力回向法の根源を、通仏教的な流れがあるということを示しておらえると受けとめれば、この一文にも意味があると思う。ただし、危険性はある。(満井所長)

唱和100%撤回、修正について

Q 危険性のある文章を100%唱和は筋が通らない。唱和をいったん止められないのか?文言自体を修正出来ないのか?

唱和100%を改めよという要望はしっかりと受け止めて持ち帰る。内容に関しては、ご消息そのものは、勧学寮の同意のもとご門主から発布されたものであるから、我々の立場からは、教義的なことも含めてそこに手をいれることは出来ない。文言そのものを変えるのは我々の領域外。(三好総務)

Q 訂正するのは勧学寮しかできないということか?

いえ、ご消息として発布されたものであるから、今さら勧学寮がおかしかったと言っても修正は叶わないと思う。(三好総務)

Q 戦時中に出された消息は撤回しているのではないか?

戦時中のご消息は最終的に依用しないという判断がされている。ご消息そのものが消えたわけではない。(三好総務)

Q ということは、理論上、新領解文が依用されなくなるということはできるのでは?

戦時中のご消息がどのように依用されないことになったかというと、宗令というものが発布された。この宗令をご門主が出された。ご門主が出された消息をご自身が宗令で発布されるというのは考えにくい。(中井部長)

前総長に対する勧学寮の回答に関して

Q 宗報10月号で、新領解文の対応について浅田勧学寮頭は総局に対して、「有志の会が主張する内容は教義に違するとは言えません。従いまして彼らを指導する職責は寮頭にないと判断します」とある。有志の会の声明では「この文言を領解文として出言することはできない。そして何より、宗祖のご法義に重大な誤解を招きかねない文言が、ご門主さまの名のもとに発布される「ご消息」として掲げ続けられることを、座視することはできない。平易な言葉を用いた現代版領解文を示そうとされた意図は理解できるが、発布された文言によって、かえって全国的な混乱を生じている。したがって、宗祖親鸞聖人のご法義に照らして、速やかに取り下げるべきである。」とある。勧学寮頭は有志の会の言うことは間違っていないと回答されている。これに対して総局はどのように対応するのか?

勧学寮は新しい領解文に対して同意している。その後、「勧学司教有志の会」の声明に対しても間違っていないと言っている。自分たちが同意した文章に対して、それをおかしいと言っている文章に対しても間違っているとされていることには、我々も理解に苦しんでいる。(三好総務)

勧学寮は、法義に関しては有志の会の見解は間違っていないということで、それに付属する他の発言に対しては、問題意識を持っているのではないかと読み取れるところではある。総局としては勧学寮に相談というかお願いをしている段階である。(中井部長)

Q 有志の会が言う「取り下げるべき」という言葉については、寮頭はどのように考えているのかは不明ということか?

公文書を持っていた折に石上前総長が浅田勧学と確認されている。それは、石上前総長が退任された時の挨拶でもはっきりと明言されている。宗報6月号にも載っているが、浅田寮頭と同意したということについては、間違いないと認識されているので、寮頭としては同意したので取下げということは考えていない。(中井部長) 

Q 武田昭英前執行長が宗会議員に宛てた文章には、
『総局が「内事部から回移されたご消息文案について、勧学寮が同意したそのままの文案で申達したのであって、そのあいだ総局は文案に関与した事実はない」という趣旨の説明を繰り返していることと、著しく矛盾しています。特に、葛谷英淳・統合企画室長の勧学寮に対する行為は、宗法第70条の規定に明らかに反する宗務行為です。また、勧学寮の同意については、葛谷室長の執拗な要請を受けた徳永一道勧学寮頭の独断であり、正式な寮員会議を通していないことは明白です。他の寮員の同意は、事後追認でしかありません。なお、この点は、当時の勧学寮の慌ただしい状況を把握している深川勧学と森田勧学、および満井勧学の証言とも一致していると聞いています。』とある。これに関して満井さんはどういう見解なのか?

・私の証言が出ている拠り処は、徳永前寮頭が勧学会司教会において表明された内容を申し上げているに過ぎない。つまり、葛谷室長とのやり取りに関わっているのはあのお2人しかいないわけであるから、どちらかの言い分しか私は知り得ず、私は徳永前寮頭の言い分をお聞かせいただいた。葛谷室長の言い分は聞いていない。(満井所長)

・武田前執行長の文章にもある葛谷室長のやり取りは録音されている。その録音は勧学寮に保管されているが、勧学部長が確認したところ、執拗に迫るような発言は一切ない。だから、武田前執行長が出された文章は虚偽ということになる。寮員会議でも結論を得ずとあるが、寮員会議があったという事実は報告がある。個人の名前を出す時はその方の名誉ということもあるので、我々としては確認しているところである。(中井部長)

Q 徳永前寮頭は、ご消息に同意してしまったのは誤りであると言い、どのような懲戒を受けることも覚悟しているとある。どこまでが正しいのかわからないが、そのような言葉にもとても重みがある。このあたりの事実関係を我々末寺にもお聞かせいただきたい。

武田前執行長が宗会議員に出された文章であるので、総局の見解としてまとめて宗会議員には送った。その中で、ご指摘のあった所に関しても事実確認をした上で、先ほど申したとおりである。武田前執行長のご主張は少し無理があるところもある。(中井部長)

従来の領解文も聖教ではない?

Q 改悔批判に新領解文が使用されたが、問題はないのか?

従来の領解文も聖教扱いではない。蓮如上人の時代から伝わる信仰の表明を江戸時代において異安心が蔓延しているから、統一的なものにしましょうと制定された。そういう1つの有り様をずっとやってきた。(満井所長)

Q 今回の改悔批判はどなたが考えたのか?

改悔だから、我々が悔いるべきは自力心からの決別だということで最初に従来の領解文が必要。そして、新しい領解文も安心・報謝・師徳・法度で私が申しあげたので、みなさんで唱和しましょうという流れにして提案した。それを受け入れるかどうかの判断は内局にある。責任の一端が私にもあるのは間違いない。(満井所長)

Q 従来の領解文は聖教に準ずるということに当てはまるのか当てはまらないのか?

新しい領解文は聖教にはあたらない。従来の領解文もあたらない。蓮如上人作「等」というところには入らない。(中井部長)

Q では、新領解文は、専如門主による令和の教学と受け取ればよいのか?

ひとり歩きすると困るので、申しあげることを拡大解釈しないでいただきたいが、ご親教もご消息もそれぞれの時代においてご門主がお伝えしたいことを発布されているから、その意味においてはそのとおりだと思うが、他のものとくっつけて拡散されることのないようにと思う。(満井所長)

この問題を座視することは、個人の責任を問うのではなく、我々ひとりひとりが誹謗正法罪を犯しているのと一緒である。門主のメンツ云々の次元の話ではない。我々が受ける業である。まさかこんなことが本山において行われるとは夢露ほども思っていなかった。誠に悲しいことである。我々ひとりひとりが自分の問題としてとらえていただければと思う。

無回答

参加者の感想

・「本来ひとつゆえ」に関する言及と質問に対して、満井所長は一切反論せず「危険である。払拭する論理は持ち合わせていない。私の説明は不完全のまま」という意を発言していたことが印象的であった。教義的にはすでに決着しているのではないだろうか。なのに唱和が推進され続けることに憤りを感じる。
・従来の領解文が聖教に準じないという回答に驚いた。従来の領解文は聖典に収録されており、法話のご讃題としても聞かれることがある。それが聖教に準じていないということは、今後、正式にはご讃題にあげることも難しいということになり、そのように理解している本願寺派僧侶は誰もいないのではないだろうか。
・ご消息に石上前総長の文章に類似する点が多く見られることに関して、ご本人が「存じあげない」と言っているということは、自分の書籍に類似する言葉があることを知りながら何も言わずに申達したということになる。さまざまな問題の元凶のひとつがここにあると思う。
・ご消息を依用しないようにするためには、門主による宗礼を出す必要があるとのこと。自身で発布した消息に対して自ら宗礼を発布するのは考えにくいという回答であるが、理論上は可能であることがわかった。



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