見出し画像

教会に通う理由

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

第五回目は、「教会」について
ノンクリスチャンだったボクが感じたことをお話していきます。

独学で聖書研究

聖書に導かれ、神様を知ったボクは、
聖書を理解するために、
インターネットを駆使して独自に勉強していました。

そのうち聖書関連のYoutubeも観るようになり、
気が付けばSOSTVの動画ばかり観るようになっていました。

どの動画の、何にボクが惹かれたのかは思い出せませんが、
聖書の真理を全く知らないボクが、
“このチャンネルは真理を語っている”
と確信していました。

人生の様々な疑問や、キリスト教に対する疑問に対して
聖書のみ言葉や、歴史的な事実から見事に解説していたので、
信頼することが出来たのだと思います。

その頃、神様の感動に触れたボクは、
何人かの友達に聖書の話をして、
毎週土曜日に、聖書勉強会を開催していました。

聖書勉強会といっても、みんなでごはんを食べたり、
おしゃべりしたり、仕事の相談にのったりするくらいのゆるい集まりで、
聖書をしっかり勉強しようと思っていたのはボクだけだったので、
一週間学んだことをみんなに発表する程度の集まりでした。

SOSTVの聖書の預言シリーズの黙示録をパワーポイントでまとめて、
みんなに発表したりもしていました。
(今その資料を見返したら、ひどい内容でした。とてもじゃないですが、恥ずかしくて見せられない代物です)。

ちなみに聖書の預言シリーズは、非常に長いですが
クリスチャンも、そうでない人も是非観ていただきたい内容です。
一度先入観を捨てて、観てほしいです。

※長くて観るのが大変な方は、No.2とNo.17がわかりやすくてオススメです。

そんな風に神様を信じてはいる友達はいるけど、なかなか温度感もあわず、むしろ聖書に興味を持ってもらおうと気を使うばっかりで、
信仰の仲間といえる人はいませんでした。

こうして一人で聖書研究をすることに限界を感じていたボクは、
「教会に行ってみたい」と思うようになりました。

もっとしっかり正しい教えを聞きたいのと、
前回お話したように、
友達がいても、孤独感が拭えない性格だったので
真に神様を求める信仰の仲間が欲しかったのです。

とはいえボクには教会の知識もなく、
カトリックの歴史を学んではいましたが、
「でも、今のカトリックは昔とは違うのでは?」と思っていたので、
「都内のなんかかっこいい教会に行ってみようかな」とか、
軽い気持ちで考えたりしていました。
(とはいえボクの人見知りな性格のおかげで、
教会を適当に選んで入る、ということはしませんでしたが…)

その頃、色々考えて、何もわからないなりに、
ボクの中で"こういう教会に行こう!"と決めた基準があります。

たった2つのシンプルなものです。

一つ目は真理を愛していること。

そしてもう一つは、完璧な教会は存在していないことを知る、ということ。
(教会に完璧さを求めない)

二つ目はボクが意識していればいいだけなのですが、
何しろ一つ目が難しい。
その頃田舎へ移住する計画を立てていたので、
移住先の教会を調べてみましたが、
どうも聖書に書いていないメッセージを発信しているように思えました。

そんな時、いつも観ていたSOSTVがセミナーを開催するという知らせが来ました。

とにかく真理を知りたい。
そして教会をどう選べばいいか知りたい。
そう思い、すぐに申し込みをしました。

SOSTVとの出会い

SOSTVのセミナーの最初の印象は、
“等身大だなぁ”
というものでした。

ボクは都内で仕事をしていた時、
講演会をやったり、講師としての仕事もしていたことがあります。

その時は、いかに派手に見せるかに苦心していました。
音楽も駆使して気分を高めて、
いかに感動させるスピーチをするか。
信頼に足る存在だと思わせるか。
そういうことが大切だと学び、全力を注いでいたので、
SOSTVのセミナーに参加した時、逆にびっくりしました。

そういった「自分を大きく見せよう」という努力が全くなく、
むしろ謙遜に、神様だけに栄光を帰するようなセミナーでした。

当時都内で、世俗にどっぷり肩まで浸かっていたいたボクは、
少し拍子抜けしました。

例えるなら、毎日ラーメンや牛丼を食べていた人間が、
玄米とお漬物と味噌汁だけ出されて、
「え?これだけですか?」
と感じるような感覚です。

今となっては、むしろそれがクリスチャンとして
正しいセミナーのカタチだと思いますが、
当時のボクにはまだよくかわりませんでした。

ただ、他に頼るところもなく、
人見知りで小心者で、自分から色んな所に連絡してみる、
というようなことも出来ないので、
藁をもすがるような思いで、SOSTVのあきら牧師と連絡先を交換し、
現在通っている『みことば教会』を紹介してもらいました。

そしてその年の12月
初めて『みことば教会』に参加しました。

教会に依存する信仰

当時は、東村山の小さなホームチャーチで集まっていました。
教会に行くのは初めてだったので、
いきなり讃美歌礼拝が始まって
「あ、映画で観た教会とおんなじだ。ほんとに歌うたうんだ」
などと思っていました。

実は教会に行きたいけど、
行かずにうじうじしていた最大の理由はこの讃美歌礼拝でした。

何故なら、讃美歌を一曲も知らないし、
元バンドマンで当時世俗の音楽ばかり聴いていたボクにとって、
讃美歌は“退屈なもの”という印象があったからです。

ちなみに今は讃美歌が大好きです。
讃美歌についてはまた別の機会にお話します。

そんなこんなで説教も始まり、お昼を食べ、
午後の交わりをしたらあっという間に初めての教会は終わりました。

その日は情報量が多すぎて、感動もなく
「とりあえず通ってみるか」と、そんな感じでした。

ただ教会に通っている方々はみんな素敵で、
もっと話したいな(でも人見知りなので話せないな)と思っていました。

こうして毎週教会に通うようになったのですが、
それで何か変わったか?
と言われれば、何も変わらず、
聖書勉強会をしていた友人とも疎遠になり、
信仰的には停滞しているような感覚がありました。

今思い返すと、
「教会に行けば、教会が何かを変えてくれる」
と、勝手に思っていたんだと思います。

神様に頼らずに、教会に頼っていました。

そしてコロナが激しくなり、教会に集まることが難しくなり、
しばらくZOOMで礼拝をしよう!
ということになりました。

ボクは心の中で、
「楽になってうれしいな」などと思っていました。

田舎から教会に通うのは遠いし、オンラインの方が楽だし
讃美歌礼拝も気にしなくていいから、説教に集中できてありがたい。

その頃のボクは、信仰も停滞し、
成長していない自分に焦りも感じていましたが、
どうしていいかもわからず、
ただ、教会で与えられたものを食べるだけ
というような信仰生活を送っていました。

こうしてしばらくオンラインでの礼拝が続き、
コロナが少し収まってきたころ、
国立で、『みことば教会』を再出発しましょう。
ということになりました。

「国立かぁ、遠いな…」

田舎に引っ越したのは自分なのに、心の中で文句ばっかり言っていました。

それでも『みことば教会』がないと、信仰の仲間を失ってしまうので、
「遠いから月に一回だけ通おう!」
と心に決めて、国立の教会へと向かいました。

教会の真の意味を悟る

教会へ着くと、
いつものようにみんなで讃美歌礼拝をし、説教を聞き、
お昼ごはんの時間になりました。

テーブルの位置を直してお昼の準備をしているとき、
ふとある思いがよぎりました。

「世の中は、嘘をつかれたり、裏切られたり、
ちょっとした誤解から簡単に人間関係が壊れてしまう恐ろしい世界だけど、
ここにいる兄弟姉妹は、全員イエス様を愛していて、
互いに愛し合っていて、
完璧ではないけど、自分の罪に勝利するために戦っている同志なんだ。
だから誤解を恐れる必要はないし、間違っても一緒に祈りあえる、
本当の兄弟姉妹なんだ

40年以上ずっと孤独感に苛まれて、気を使って、誤解を恐れて、
いつも心の中で弁解しながら生きていたようなボクにとって、
初めて荷物を降ろして交われる人たちと出会えていたんだ!」
ということを急に悟りました。

それは、教会に通う人たちが聖人君子だからではなく
『みことば教会』に通っている兄弟姉妹全員が、
"イエス様を愛している"ということが、保障になっていました。

世俗から離れきれず、教会という場所に依存していた信仰が、
教会の兄弟姉妹を通して、
イエス様に目を向けることを忘れていたことに気づかされたのです。

またも聖霊様が働いてくださいました。
ボクは心から感動を覚え、毎週教会に通うことを心に決めました。

今でもボクにとって教会は、イエス様を中心とした愛の集まりです。
真の心の平安のある場所です。

そして、試練の時
信仰の友がいることで、どれだけ励まされてきたかわかりません。

神様はおっしゃいました。
「人がひとりでいるのは良くない。」創世記 2:18

決して教会そのものが救いをもたらすのではありません。
しかし、教会を通じて、
そして人との交わりの中で、
人は再創造されていくのだと悟りました。

今後きっと教会に、大きな試練が訪れることもあるでしょう。
そのとき、議論や理屈ではなく、
祈りと証とみ言葉と、何より愛によって乗り越えることが出来ると信じています。

試練の時、兄弟姉妹と共にイエス様に愛を示すことが出来ることが、
今から楽しみです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?