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伝道なんてしたくない!?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

第十七回目は、「伝道」についてです。

イエス様を伝えるのはクリスチャンとしての使命ではありますが、
同時に「伝道」というのは、多くの人に誤解されるキーワードだと思います。

かくいうボクも誤解していた言葉でした。
今回はそんな「伝道」についてボクが感じたことを、お話出来ればと思います。

勧誘と伝道は同じもの!?

ボクは聖書に出会い、教会に通うようになってから、
真理を学びたい
信仰を成長させたい
とは思っていましたが、
しばらくの間は、「でも、伝道はしたくないなぁ」などと思っていました。

もちろん伝道の大切さは頭で理解しているつもりでした。
なので、伝道そのものを否定しているのではなく
「自分はやりたくない」という意味です。

やりたい人や、得意な人がやればいい、と思っていたのです。

ボクは営業が得意ではないし、人見知りだし、変なウワサが流れたら嫌だなぁと思っていたのです。

正しいクリスチャン生活を送っている人なら、ボクのこの間違いにすぐ気づくと思いますが、
要はこのとき、ボクの頭の中では、
『伝道=勧誘』
になっていたわけです。

もっとこまかくいうと、頭では『伝道≠勧誘』というのは理解しつつも、
心の中でどこか、『伝道=勧誘』という考えを握りしめていた
という方が正確な表現です。

これはボクのみならず、多く人が誤解している事だと思います。

たまに友人に自分がクリスチャンだと告白すると、
「勧誘される!」と警戒する人もいたりします。

その人にとっては、もはや『宗教=勧誘』なんですね。

様々な間違った宗教の悲しい事件などをニュースで見ているので、警戒心が強くなるのは分かります。
その気持ちが充分わかりすぎるが故に、
「きっと伝道=勧誘と思うだろうな」と勝手に推測し、伝道を難しく感じてしまうのです。

勧誘と伝道①:目的の違い

ここで一度、勧誘と伝道の違いを整理してみたいと思います。

勧誘と伝道は、まずその目的が違います。
簡単にいうと、勧誘の目的は、「買わせる」もしくは「入会させる」ことであり、
伝道の目的は、「神様を伝える」もしくは「人生に良い(聖書に基づいた正しい)影響を与える」事だと思います。

別に教会に来てほしいわけではなく、神様の愛に気づいてほしい、神様の愛の体験を共有したい、というのが主な動機や目的になるわけです。

ところが世の中の多くの人は、こんな当たり前を持っています。

『人が集まるところには、お金が集まる。だから団体やコミュニティを作れば、それを大きくするのは当然のことである。
何故ならそれらが大きくなればなるほど、お金が多く集まるからだ。
なので、起業したり、お店を持ったら、その会社やお店を大きくする事が成功であり、そうすべきである。
そして、大きい会社を経営している人は成功しているすごい人だ』

こんな風に、人やコミュニティ、お金を捉えています。

なので、宗教という団体を見ると、自動的に無意識で
「人を集めて、団体を大きくしてお金を儲けたいんでしょ?」と思ってしまうわけです。
(逆に、小さい団体は成功していないのだから、とるに足らない存在だ、という認識を持ったりもしますね)

ボクも30代のころ、都内で成功したいと思っていたので、この無意識の思い込みは少なからずありました。

こういった思い込みが根底にあるので、伝道の目的がいまいちピンと来ないのです。

それで、宗教と聞くと、自動的に「勧誘」というフィルターで、捉えてしまうんですね。

勧誘と伝道②:手法の違い

さて、勧誘と伝道の違いのもう一つの側面として、その手法の違いがあります。

勧誘は、マーケティングや心理学などを駆使して、実に人間的な方法で行います。
そして多くは、相手の気持ちをコントロールしたいという思いが根底にあります。
それで思い通りにならなくてストレスを抱えたりするのでしょう。

もちろん、一流の営業マンは相手をコントロールしようとはせず、真に相手の必要を満たして購入を勧めます。
その分、圧倒的な数の人に、営業活動をするわけです。

大きなポイントとしては、「自分の知識や能力によって成し遂げる」ということです。
仮に何かのツールを使っているとしても、そのツールを知って、使いこなしている自分の能力に依存しているわけです。

そして勧誘の成功とは、勧誘した対象が「何らかの行動を起こす」ことです。
購入したり、入会したり、という行動を促すわけです。
それを成功と捉えます。

そしてその成功の源は、いつも自分なのです。

しかし伝道の手法は、もっと神様の方法を用いる気がします。
それは何もしないで神様が与える伝道のチャンスを待っていればいいという事ではなく、自分がやれることは何でもやりますが、
必ずしも直接神様について話す事だけが伝道ではない、ということです。

例えば道で本を配ることも伝道ですが、道で誰かに親切にすることも伝道です。
知り合いに神様についての体験を話すことも伝道ですし、全ての人に笑顔で接することも伝道です。
営業マンのように自分が全てやらなければ!という働きではなく、
自分が出来る精一杯をやりつつも、そのうえで、神様に全てをお委ねするのです。

そして伝道の成功は「行動を促すこと」ではなく、伝えた人の「人生が変わる」ことだと思います。

伝動した人が教会に来なくてもいいのです。
その人に真理の種が植えられて、人生に行き詰った時
神様に出会えればいいのです。

教会員を増やしたいだけなら、マーケティングや広告をうまく利用し、有能な営業マンを使って勧誘した方がいい結果は出ると思いますが、
それは伝道ではないのです。

どんなに相手の心理を誘導して教会に来たとしても、その人が真に神様に出会わないのだとしたら、その伝道は失敗なのです。

勧誘と伝道③:動機の違い

勧誘と伝道の違いをもう一点付け加えるとすると、目的のところと重複してしまいますが、動機の違いもあるでしょう。

勧誘の動機は、お金を稼ぐ事です。または自分が成功したいという思いの場合もあるかもしれません。

伝道の動機は、シンプルに神様に出会ってほしい、真理に出会ってほしい、ということです。

置き換えてみると分かりやすいですが、例えば不治の病を治してくれる名医がいたら、その名医を誰にも教えずに、自分だけのものにするでしょうか?
その名医に、死ぬしかなかった筈の不治の病を治してもらったのなら、黙っている方が辛いはずです。

「ここに名医がいる!」と叫ばずにはいられません。そしてその名医が、多くの人に知られることを喜ぶはずです。

ところが、ボクはこんな純粋な動機を持っていませんでした。伝道に見せかけた、勧誘の動機を持っていたんです。

このような場面を想像してみてください。

自分の大切な友人に、神様の愛を伝えてみた。反対されないまでも、あまり理解してもらえなかった。
その友人とはそれ以後も頻繁に会っては、たまに神様の話をすることはあった。
そんなことを何年もしているうちに、ある日友人が目を輝かせて、「神様っているんだね!」と言ってきた。

うれしいですよね。

ですが、どうやら友人は、自分よりも信仰をもって、日が浅い人と話して感動したようなのです。

そんな時こんな風に思ってしまう人はいないでしょうか?

友人が喜びながら語ることに対して「だからそれ、私が何回も言ってきたことじゃん」
「私の言葉には反応しなかったくせに、あの人の話なら素直に聞くんだね」
「こんな簡単な一言で感動するんだったら、私が友人にしてきた今までの数年間は何だったんだろう」

どんな経緯であれ、大事な友人が神様に出会えた事は喜ぶべきことなのに、ほんのちょっとだけ、拗ねた気持ちになってしまうんですね。
もしかしたらこれが友人ではなく恋人や配偶者だったら、伝道を成功させた人に対して、嫉妬してしまう人もいるかもしれません。

もしそういった気持ちが少しでもあるなら、その伝道は、きっと勧誘なのです。

自分が成功したいという動機をもって、自分が伝えたかった、自分がやったことを誇りたかった。
そんな想いがあるのですから。

少なくとも以前のボクは、そんな気持ちをほんの少し心に残していました。

神様の証人となる

勧誘と伝道には、こういった違いがあるように思います。
世俗にどっぷり浸かって来たボクとしては、なかなかその違いを理解することが出来ませんでした。
しかし神様の愛に触れるにつれ、そういった思いは消えていきました。

クリスチャンは、神様の愛に応答した人々です。
神様の愛を知れば知るほど、神様の愛を知らずに生きている人たちの為に、神様の愛を伝えたいと思うはずです。

ボクは、今までうまく神様を伝えられた事なんてありません。
ボクの言葉にはあまりにも力がないことを実感するばかりです。

それでも、今では神様の愛を伝えたいと切に願います。

人生で悲しんで、怒って、傷ついて、傷つけあっている人たちが、神様に出会って欲しいです。
たまたま今人生が順調なだけで、状況が一つでも変われば倒れてしまうような、かりそめの平安ではなく、神様からくる真の平安を分かち合いたいです。

最後に聖句をひとつ紹介します。

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、
全世界に宣べ伝えられるであろう。
そしてそれから最後が来るのである。

マタイによる福音書 24:14

聖書を学び、正しく真理を学ぶ事は重要です。

しかしイエス様は、全世界にあかしが宣べ伝えられて、終わりが来ると言っています。

聖書の真理を正しく説明することや、教理の間違いを指摘し、正しい教理を伝えるのではなくて
証(あかし)
を伝えると書いてあります。

証(あかし)を伝える為には、
神様の愛を受ける経験、罪に勝利した経験、生まれ変わる経験
それらを日々体験する必要があります。
聖書のみ言葉を日々生きる必要があります。

そうやって、真のクリスチャンとなって、イエス様の証人となって、神様の愛を伝える。

そういう人になりたいです。

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