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八ヶ岳01

 土壁に鹿の頭が並んで掛けられている。20個くらいだろうか。手前の台には、ちょうど人間の生首の様にこれも雄鹿の頭が据えられている。顔は正面を向き、角が空を向く。さらにこちら側では、一匹のウサギがお尻から額までを木の杭に突き通され、垂直になり宙に持ち上げられていた。額を突出した杭の先端は、まるで角のようにも見える。
 日常が、プツリと切れる。
 21世紀初頭の日本における都市の暮らしが、これら動物達の捧げ物によって、時間でも空間でもない軸の上を遠くに押しやられる。拙い歴史的知識と理解で組み立てた「現代」は消え、もう見ることのできないいつかの時代が立ち替わる。

 長野県茅野市。諏訪大社上社近くにある神長官守矢史料館を訪ねたのは、ただ藤森照信の建築を見たかった為だった。展示はそのついでに少し眺めればいいとしか思っていなかった。ところが100円を払って入場した建物の、斜め前の壁は一瞬で僕の心を遥か過去に飛ばした。衝撃的だった。それは展示物が残酷だったからではなく、提示された歴史がイメージ通りの歴史ではなかったからだ。僕たちは歴史をあるパッケージに入れて理解している。「日本の歴史」という言葉を聞いた時に浮かべる特定のイメージを持っている。目の前の壁面に展開する鹿や兎の剥製は、僕がいつの間にか固定観念として持っている「日本の歴史」とはかけ離れたものだった。
 この展示は、諏訪大社御頭祭を再現したもので、江戸時代の博物学者、菅江真澄が1784年に描いたスケッチを元にしている。当時の祭りでは、鹿の頭は75個もあったというから随分なものだ。祭り自体は今も諏訪大社で規模を縮小し剥製を用いて行われている。
 神事に動物の骸が使われ、それが神前に捧げられるというのは、普段なんとなく神社に接している僕たち日本人には理解し難い。神社にはなんとなく清らかで肉とは断絶されたイメージがある。お酒や饅頭は供えるけれど、鹿の頭部なんて変だ。鹿が祀られていてもいいけれど、鹿の生首を神職が恭しく掲げるのは異様な感じすらする。
 同時に、この景色はある懐かしさを、自分がけして体験してはいないものの郷愁を抱かざるを得ない、ある仮想的な懐かしさをもたらす。それはこの日本列島を駆け回っていた狩猟採集時代の人々の記憶だ。一日中液晶画面を眺めている僕たちとは全く異なる生活をしていた、僕たちの祖先についての。無論、それらを記憶と呼ぶのは間違いで、単なる空想という方が正しい。ただ、その空想はあたかも自身の記憶かのように身近であり、僕の心の奥から活性の高い感情を汲み出した。
 史料館を訪ねる前に、僕たちはいくつかの縄文史跡と博物館を回っている。しばらく前にたまたま見つけた「星降る中部高地の縄文世界」というサイトを見るまで知らなかったのだが、長野県と山梨県にまたがる八ヶ岳周辺の中央高地(先ほどのサイトでは中部高地と呼んでいる)は、良質な黒曜石が取れたこともあり縄文文化が栄えていた。ここから日本のあらゆる場所に黒曜石が運ばれて行ったりもして、当時の最先端文化圏がここにあったのではないかと言われている。また、後に日本列島に大陸文化が入ってきて西から東へと伝搬した際にも、高地であり山深いこの辺りには新しい文化に侵食されるのが遅れたという話だ。湖畔に立っていると海と同じ高さにいる気分になってしまうが、諏訪湖も標高759メートルの高さにある。
 縄文のハイテク都市が、高度に守られ比較的遅くまでその文明を保持したという考えはとても魅力的で、空想が止まらなくなる。かつてここに生活した人々の姿を見たかったと思う。彼らは何を考え、何を作り、どのように暮らしていたのだろう。降ったり止んだりを繰り返す小雨とその湿気の中、頭の中はイメージが奔走する。
 いや、奔走ではないのかもしれない。そこにはある限界があった。
「こんなこと言いたくはないけれど」と僕は言った。
 こんなことは言いたくないけれど「もののけ姫」みたいだ。縄文の獣を狩る生活。それから、どこへ行っても名前の上がる武田信玄とどことはなく戦国時代をイメージさせる地形。甲斐国。あとから調べてみると、この辺りは実際にもののけ姫を作るとき参考とした場所ということだから、もののけ姫を連想するのは仕方がないのかもしれない。しかし、自分がある風景を見て感じたことが一つのアニメに回収されてしまうことを僕は嬉しく思わない(同時に嬉しく思うという複雑さも持っている)。
 映像、テキスト、様々な種類のメディアに日々溺れハイパーリアルを生きている僕たちは、何かを見て零度でそれを感じることができない。旅先で触れた風景、自分の日常、ありとあらゆるものを僕たちはフィクションの世界に投影する。リアルとフィクションに編まれた写像世界の中で僕たちは息をしている。そして、日本人にとってジブリは実に大きなフィクションだ。田舎に行ってはトトロみたいと言い。森を見てはもののけ姫みたいと言い。廃墟を見てはラピュタみたいと言う。これはもしかしたら素敵なことなのかもしれないが、病ではあるだろう。(フィクションが僕たちにどのように作用しているのか別のところで書きたいと思う)

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