かみしゃまの住む山で。
その山には神様が住んでいらっしゃって、そこに暮らす者をお守りして下さっている。
そこにいると、時折、神様の声を聴く。
それは言葉ではなく、また音楽でもない。
ただ、それとして、はっきりと『声』であることがわかる。
それはポンッと肩をたたくように。
または、頭を優しくなでるように。
「かみしゃま、ほんにのう」
苔むす林道を歩くと、茜が差し込む。
木の間をくぐりぬけた光が、緑の柔肌の上で踊った。
それは神様が、私たちを快く迎え入れたシルシだったのかもしれない。
鳶がぐるりと輪を描き、空を切り裂くような長く尖った声をあげた。
雨が降り、その雫がピアノの鍵盤を無造作に打つ。
純真で、無垢な音色が、あちらこちらで、聴こえてきて。
それがいつしかハーモニーとなり山じゅうを包み込む。
そんな美しい光景が目の前に広がった。
ふと我に返ると、どこにも雨など降っていなかった。
ずいぶんと山を登ったろう。
山々の間を流れる大きな川、その上を吹き抜ける若葉色の風。
葉が重なり合う音、虫の声、気配を消した動物たちの姿。
登れば、登るほど、空気の密度は上がっていった。
山の呼吸は彼らひとつひとつの呼吸の交響曲。
鼓動がリズムを刻み、彼らの仕草、息づかいが重なり合って、ひとつの音楽となる。
平坦な道から、勾配のあるねじれた道に差し込んだ。
枝々が影をつくり、薄っすらとした木のトンネルの中をくぐり抜ける。
奥ゆかしき、不可思議の世界へ。
車から降りると、肺の中に飛び込んできた空気は冷たく、こよなく楽しそうで。
導かれるように、私は林道の中へと足を踏み入れた。
土の匂いがした。
きっと私の靴の下。
木々が根を張るその隙間を縫うように、踊るようにミミズが這っているのだろう。
ほっこりと、足元から、ぬくもりが伝わる。
目に見えるものだけが全てではない。
溢れて、こぼれ落ちるほどの、光が。
豊かな土色が、豊饒の緑が。
色彩の洪水の中に溶け込むように、私は自然へとかえってゆく。
豊かな色彩が教えてくれる。
目に見えるものだけが全てではない、と。
山の表情は豊かで。
日本人は季節を四つに分けたけれど、実はもっと多彩な季節のそこにはあって。
一ヶ月ごと、なんていう話でもなく。
二日、三日ごとに季節は移り変わり。
もっと言えば二時間で季節は表情を変える。
山の呼吸に合わせて、息を吐き、空気を吸う。
そうすると見えてくるものが増えてきて。
その反対に、目に見えるものの頼りなさを知る。
知っていることが大切なのではなく、「知らないことがある」ということを知ることの方が大切なんだ。
「かみしゃまは教えてくれますか?」
「何を?」
「私の知らないことを」
「かみしゃまは教えない」
「どうして?」
「かみしゃまは、『知らないということ』を贈ってくれたんだ」
「知らないということ?」
「知ることの喜びを味わえるように」
お日様が頬を撫でると、こそばゆい。
生きているということは、そういうこと。
一歩一歩、踏みしめるごとに、その「生きている」ということを確認する。
あまりにも当たり前なことを、人は忘れてしまいがちになる。
でも、私たちはこの木と同じように生きている。
お日様に頬をくすぐられて思い出す。
生きている者同士は同じ世界に住む仲間。
ひとつ、優しくなれた。
「こんにちは」と声をかける。
言葉の意味なんていうのは分からないかもしれない。
でも「こんにちは」という気分は伝わる。
意味なんていうのは、後付けに過ぎない。
気分を説明する「方法」が意味で。
その道具が「言葉」。
大切なのは心。
本当は、心に意味なんて必要ない。
ただ、現象として、心がそこにあるだけで。
その山には神様が住んでいらっしゃって、そこに暮らす者をお守りして下さっている。
ただ、その中で一番偉いのは人間ではない。
「暮らす者」と言った時に、人間様だけを思い受けべる高慢さ。
そこには人間よりもずっと多くの生き物が生活を営む。
人間よりもずっと昔から。
スクラップ&ビルド。
破壊と再生。
進歩のために無理矢理壊す。
それは人間だけに許された行為か。
そんなことはない。
自然は再生のために災害という形で人間さえも破壊する。
破壊よりも強い力。
それは生命力。
自然の治癒力に勝てる者を、私はまだ知らない。
神様は全てを愛でる。
大きな渦の中でたゆたう光。
歓びに、怒り、悲しみ。
様々な感情を越えたところで。
ただ、ただ、見守る。
ありのままを見て下さっている。
悠久の山々。
果てしなく広がる大空。
点々と浮かぶ雲が時の経過を教えてくれる。
見下ろす景色に、少しだけ神様の心を垣間見ることができる。
それよりもずっと、見上げる景色にそこはかとない憧れを抱く。
ここにいると、私たちはみな、同じ生き物だという一体感を抱かせてくれる。
そして、己の傲慢さを思い知らされる。
それが妙に心地良い。
それは感性が自然と呼応するため。
自分自身が、自然と同期するため。
私が考えたのは、家族のこと。
山並みの輪郭を目で追いながら、家族のことを想った。
心が浄化されていき、本当に大切なことだけしか残らなくなる。
西の山へと沈んでいく陽を全身に浴びて、己が0(ゼロ)へと向かっていく。
削ぎ落として、削ぎ落として、尚、残るもの。
それこそが、その人間を形成するオリジナル。
手に入れる作業に没頭することよりも、時には捨てていくことも大切かもしれない。
自分にとって心から大事なものを、見つめること。
それは有意義な時間だ。
移ろいは時間の経過と共に。
成長も、退化もグラデーションであり。
その境界線は実に曖昧模糊で。
時間の経過と共に構築される芸術。
つまりは神様の奏でる音楽として、私たちは存在している。
その音色、ひとつひとつに役割があって。
それはこの山々の持つ葉、一枚一枚ほどの数があり。
全体でしゃららんと葉を重ね合わせるように歌うのだ。
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