見出し画像

共感バイオレンス

わたしたち人間は、共感する生き物だ。

集団行動で生き延びてきた哺乳類たちは、食物を分け合ったり、傷ついた者がいれば世話をして守り、互いに協力し合って社会生活を営む。その上で、この「共感」という力はコミュニケーションにおける潤滑油となる。歓びを分かち合い、悲しみを分け合うこと。それは、“ヒューマニティー(人間らしさ)”を形成する一つの大きな要素。おそらく神様は、わたしたち人間を「共感」で機能する生命体として設計したのだろう。

対話をデザインするわたしにとっても、「共感」の働きは無視できない。大小様々な共感が生まれることで、対話は円滑に進む。共感できると楽しいし、共感してもらえるとうれしい。「共感」という機能を利用すれば、ある程度の効果は得ることができる。その一方で、対話は共感のみで成立するものでもない。

対話とは、相手の考えを受け止めるところからはじまる。否定も、肯定もせず、ただ受容する。異なる価値観から学ぶことで、自分の価値観の幅を広げることが対話の醍醐味とも言える。つまり、共感できない場合の方が、新しい発見が生まれやすい。異なる価値観を持つ者が、互いに建設的な関係性を築くこと。それぞれの価値観を知り、共有し、学ぶ。それが、「対話」という方法だ。

「共感」を前提にしたコミュニケーションではなく、「受容」に重心を置いた在り方が、理想的な対話の姿勢だとわたしは考える。

「共感」はすばらしい力だ。その偉大さを実感すると同時に、その怖さも思い知らされる。あらゆる共感は、好意(好き)から生まれるものではない。当然、悪意(嫌い)からも発生する。

怒りや憎しみから生まれた共感は、はかり知れない速度で膨張してゆき、手綱のない暴れ馬のように四方八方を駆け回る。その力が対立を生み、争いを起こす。これもまた共感の力である。ご近所同士のいざこざから、政治や宗教における抗争まで、わたしたちは悪意による共感によって起きた揉めごとを日々、目にしている。

そしてまた、好意の共感が、どこかのタイミングで裏返って悪意に変わることもある(当然、その逆も起こる)。SNSなどでの炎上騒動を見ていて、そのおそろしさを感じる。あるいは、人々の共感を扇動して「人のこころを管理できる」と自惚れた人は、一つの失敗から奈落の底へ突き落される。「共感」を技術として捉えてはいけない。その浅はかさや、相手への尊重の欠如はそこからくる。

そう考えると、「共感」は厄介だ。

もしかすると、わたしたちは「共感」から一歩距離を置くべきなのかもしれない。共感することも、されることも、慎重にならなくてはならない。今日の好意が、明日の敵意に変わる場面を数々と見てきた。あるいは、共感できない余地もまた、意識的に発信することも工夫の一つとなる。

「いいね」や「like」欲しさに、共感を目的にしてしまうと、どこかで手に負えなくなる。自滅するかもしれないし、知らない誰かに引きずり下ろされるかもしれない。それならば、共感されないことを意識的に発信することも、自分の身を守るために必要な工夫だと言える。「あの人は、たまに訳のわからないことを言う」くらいに思ってもらっていた方が、平和に過ごせるような気がする。

「共感」はすばらしい。共感がなくても、人間関係を構築することはできるかもしれないが、それはサプリメントで食事を済ませるようなものだ。共感は料理を味わうことに似ていて、人生の時間を豊かにしてくれる。ただ、その暴力的な側面も忘れてはならない。

結論を言えば、とてもシンプルだ。大げさに共感することも、共感されることを狙うのでもなく、自然体でいればいい。ただ、SNSに生きるわたしたちはそれがいかに難しいのかをよく知っている。

まずできることは共感する前に、少しの時間立ち止まって考えることなのかもしれない。あるいは、対話によって「共感の不在」の価値を見出すことも一つの方法である。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。