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恋は距離をねじ曲げる

ある日、人間関係は「距離の揺らぎ」でできているということに気付いた。

ぼくはこのテーマで小説を一本書かなくっちゃいけない。それくらいぼくの中での大発見だった(とは言いつつ、話半分で読んでほしい)。人と人の間には距離がある。それは常に揺らいでいる状態で。そこにエネルギーが働いた場合、その距離は縮まったり、伸びたりする。仲良くなりたいと思えば近づくし、関わりたくないと思えば離れる。そのように距離感を調整しながら、人間関係の星図をつくる。

その星図は微弱に揺らぎながら常に移ろい続けていて、それを客観的に観察すると、その位置関係から、大切にしている人や思想、ライフスタイル、興味を惹かれてている物事が見えてくる。つまり、人との距離(物理・コミュニケーション)は、一般的にこころ(興味関心)の距離と相関関係にある。

例外は「恋」の状態。人は誰かに恋をすると、できる限り相手と仲良くなろうとして距離を縮める。ただ、近づけば近づくほど、相手との距離の遠さを感じてしまう。そのこころの距離を埋めようとして、またさらに近づき、埋まらない溝に思い悩む。これが「身を焦がす」ということなのだと思う。

あの、書いている意味、わかりますか?

ちょっと難しいですよね。そう、「距離」には物理的な距離と、精神的な距離が存在していて。細かく言えば、ネットの発達によって物理的な距離はある部分ではフラットとなった(それはコミュニケーションの距離とする)。今書いているのは、物理・精神・コミュニケーションの距離を掛け合わせた話。人が恋をしている状態は、距離がねじ曲がるの。近づいているのに、遠くにいるような感覚に陥るということ。

それは、片思いの時に限った話ではなくて。たとえば、大好きな人とデートをして、その日にバイバイしたとする。その時に、帰りの電車の中でどうしようもなく相手のことを考えてしまう。会いたいの。たった今、離れただけなのに、もう会いたいの。物理的にも精神的にも距離は近づいているのに、少し物理的な距離が空いただけで、相手のことを果てしなく遠くに感じてしまうの。好きではない相手にはそんなこと思わないでしょう。そう、それほど関心のない人には、「遠い」の拡張が行われないのね。

あるいは「好き過ぎて近づけない」という状態。これもそう。精神的な距離が、物理的な距離をねじ曲げる。当然、コミュニケーションの距離もね。これは「恋」でもあるし、たとえば、「憧れ」のような存在もそう。敬意は、畏れとなり、恐れとなる。こんなにも好きなのに、はるか遠い存在に感じてしまう。いや、好きだからこそ、尊敬しているからこそ、遠い存在となっていく。

逆説的に言えば、「恋」というのは、「近い」と「遠い」という相反する状態が同じ瞬間に存在する状態のこと。あくまで、エネルギーのベクトルが相手に向かっている場合ね(離れている場合は「好きではない」ということだから)。「恋」がものどかしいのは、そのアンビバレンツにあるのだと思う。

同時に、それは「時間」にも言えることで。好きな人と過ごす時間は「短い」し、退屈な人と過ごす時間は「長い」。それは主観的な時間だけれど、その「感覚」というものを、ぼくたちはもっと信じていいと思うんだ。時計の針の速度だけで計らなくてもいい。時間を忘れて本を読む体験が、どれだけ人生を豊かにしてくれるか。

だから「距離」と「時間」についてよく考えてみると、楽しい発見がたくさんあるような気がする。小学生の時は、その要素だけで計算したけれど、大人になってからはもっと自由に捉えてみて、そこに「こころ」の要素を入れてみる。すると全然違う答えが出てきて、おもしろいものが生まれそうな気がするんだ。

きっとぼくはおかしなことを書いている。その自覚があるだけでも、いくらかまともだと思って大目に見てもらえると幸いである。



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