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「心に残すこと」の難しさ

時間の速度が変化した。

とにかく目まぐるしい。一日一日があっという間に過ぎて行き、記憶のタームが短くなっている。「人の噂も七十五日」ということわざも、今では一週間もあればSNSで炎上騒ぎになったあの事件だって誰も話題にしない。一生懸命書いた文章も、一夜限りの感覚で消費されていく。僕たちは今、「心に残すこと」の難しさに直面している。

時間の速度は「時計」が生まれた頃から変わらないはずである。では、何が原因か。それは情報の量ではないだろうか。体感速度は浴びる情報量と比例する。

およそ30年ほど前、リチャード・S・ワーマンが『Information Anxiety』という本を書いた。日本では松岡正剛さんがそれを『情報選択の時代』というタイトルで翻訳している。「Information Anxiety」とは、「情報不安症」という意味。インターネットがこの世界に登場する前から、情報によって不安を抱えた人への処方箋は存在していたのだ。

その中で「毎週発行される一冊のニューヨーク・タイムズには、17世紀のイギリスを生きた平均的な人が一生に出会う量のあらゆる情報が詰まってある」という内容のことが書かれている。インターネットが存在しない30年前にこのようなことが書かれていたわけだが、考えてみると今、僕たちが日常的に浴びている情報量はそんなもんじゃない。

400年前を生きた人の一生分、その何倍分もの情報を浴びて、僕たちは生活している。朝起きた出来事が、夜にはノスタルジックな思い出として語られる。そんな未来はすぐそこまでやってきている。「光陰矢の如し」が言葉さながらの意味を獲得する日は近い。

情報があふれたことによって僕たちは「選択する力」が求められるようになった。大量の情報から必要なものを選び取る力やセンス。そして、「選ばない」という力とセンス。それらは、自分自身の意志に基づく。

「心に残すこと」の難しさ。それは、相手にも、そして、自分にも。そのヒントは「選択する力」にある。掘り下げて考えると、鶴嘴は「意志とはいかなるものか」という鉱脈にガチャリンと打ち当たる。

情報のその多さに惑わされて、思考することを忘れていないか?流れてきた情報の受け売りになっていないだろうか?情報から誘発される感情で満たされていないか?一度立ち止まって考えてみよう。僕たちは、思考して、自分の意志で、選択しているか?

深い思考は孤独を好む。情報はきっかけに過ぎない。情報は材料に過ぎない。大事なことは「意志」を明確にすることだ。はっきりとした答えがなくてもいい。「わからない」という状態でもいい。そこに「意志」がある、ということがはっきりとわかればいい。つまり、自分の意志によって「わからない」という答えを出せているのか、という。

この文章を読んでくれたあなたと「心に残すこと」の本質についてを議論したい。それは、決してディベート(討論)ではなく、ダイアローグ(対話)という形を通して。




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。